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入選 『鐘の音(ね)』 五十嵐 法子

「はぁ、はぁ…」
 肺が痛い。足は重く、膝はギシギシと悲鳴を上げ始めていた。禁煙しろと煩く言っていた妻の顔が悔しくも脳裏を掠める。諦めて引き返そうかと思ったその時、直ぐ上の方から鐘の音が聞こえた。「頂上の鐘ですよ」と、後ろの親切な男性が教えてくれた。その言葉通り、数分後に私は何とか頂上に辿り着き、前の人に続いてその小さな鐘を鳴らした。頂上には青空と共に湿原が広がっていた。背の高い木はあまり無くいたる所に小さな湖がある。登山者の為に湿原を巡れる足場が更に奥まで続いている様だったが、私は傍にあったベンチに迷わず座った。何とか息を整えようと、リュックからペットボトルのお茶を取り出す。喉を通るその冷たさにようやく生きた心地がした。全く、慣れない事はするもんじゃない。
「弘忠さん…?」
「え?」
 驚いて振り返ると、小柄な老齢の女性がいた。80歳位だろうか。
「あら、ごめんなさい。人違いでしたわ」
 慌てて立ち去ろうとする女性に。私は声をかけた。
「ひょっとして、ウチの父をご存知なのでしょうか」
 その言葉に驚いたのは今度は彼女の方だった。私は簡単に自己紹介を済ませ言った。
「父は、去年亡くなりました」
 父が死んで一年、あらゆる事にめどがたった先月、父宛に登山のお知らせの手紙が届いた。どうやらこの10年毎年参加していたらしく、私はふと思い立って父の代わりに参加してみる事にした。その際、私は父の登山用の服やリュック一式をそのまま借りたのだ。それを聞いて彼女は静かに頷いて、寂しそうに笑った。
 一緒に湿原を歩きながら、彼女は登山に似合わない程上品な言葉遣いで父との事を語り始めた。二人はこの山の麓の町の出身で幼馴染みだった事。10年前、故郷が懐かしくなって登山に参加したら偶然父と再会した事。それからは毎年この登山で父と会っていた事。そして、お互い初恋だった事。「気分を悪くされたらごめんなさい」と彼女は謝ったが、むしろ私は父にもそんなロマンチックな一面があったのかと微笑ましい気持ちになっていた。私の母は私が幼い頃に亡くなった。だからかもしれない。私は前を歩く彼女の背中に、母の姿を重ね合わせていた。彼女とお互いの知らない父の話をしながら山を下りると、あっという間に麓に着いてしまった。少し名残惜しい気持ちで帰りのバスに並んで乗る。私は思い切ってまた後日会いたいと伝えた。しかし彼女は今、娘夫婦と孫達と共に海外に住んでいると言い、日本で会えるのは今日だけだと答えた。残念がる私に、彼女は自分の持って来たお茶を差し出す。
「私が貴方をお父様と間違えたのは。格好が同じだったからじゃありません。貴方は弘忠さんに良く似てらっしゃる」
 受け取った水筒のお茶は温かかった。一口飲むと、胃の中にもその優しさがゆっくりと染み込んでいった。