一次選考通過 『ヒポクラテスの樹』 P.N/不意の鈴(ふいのすず)
暖かな陽射しの中、緩やかな並木の坂を、私はアスファルトを蹴りつけ歩いていた。流れる汗が襟元をつたいスーツに滲みてゆく。こんな日に限ってタクシーも捕まらないとは。
坂の上にある大学病院に私は勤めている。中堅医師に日々の業務は重く、気楽な医学生時代は遠い日の夢だ。
並木沿いの教会で結婚した若い同僚は、通り雨に降られても終始晴れやかだった。この後皆は街に繰り出すのだろう。しかし、私には患者が待っている。正午の勢いは既に無い太陽も、私を苛立たせた。
立ち止まって荒い呼吸を整え、木漏れ日を睨みつける。
「おじさん」
不意に足下から声が聴こえた。私は、小さな男の子が傍らにしゃがんでいることに漸く気付いた。
「僕、帽子を落としちゃった」
泣き出しそうな顔に、私は見覚えのある気がした。土手下へ目をやると、草むらに野球帽がぽつんと一つ。取りに行くのは造作も無いが、問題は一刻前の雨だった。男の子は黙って私を見上げている。
困惑する私は、それでも覚悟を決めた。
男の子に待つように告げ、私は恐る恐る勾配を下った。水はけの悪い草むらに足を踏み入れると、下ろし立ての革靴はたちまち冷たい雨水に侵される。私は顔をしかめながら、ふと研修医の頃を思い出した。
雪の降る季節、私は白血病の男の子を受け持っていた。まだ5歳だった。治療が奏功せず、瞬く間に彼は弱っていった。冷たく白い壁に囲まれた病室で、幼い彼は驚くほど気丈に振る舞っていた。幾つもの管に繋がれ、薬剤の副作用も辛いはずだった。
「平気だよ、僕」
病室の外で母は泣き崩れた。
病勢が一段と悪化した頃、彼は病室から出ることができなくなった。見舞いの友人にも会えなくなったとき、初めて彼は私に言った。
「先生、僕、あの坂道に行きたいんだ」
病気が治ったらまた行けるよ、と私は応え、彼の冷たくなった指を握って温めた。夏の終わりと共に私は小児科を去り、半年後に彼が遺したという手紙を受け取った。手紙の中では私の似顔絵が、ありがとう、の言葉とともに笑っていた。
私は、男の子が、かつて担当した患者と容姿、年の頃が瓜二つなことに思い至った。あの患者はこの辺りに暮らしていた。母親はまだ若かったから、あの患者の弟なのかもしれない。
やっとの思いで野球帽を手に掴み、土手に取りすがる。手を伸ばして帽子を受け取るように促すと、一瞬男の子の手が触れた。温かな体温が感じられた。
「ありがとう、先生」
顔を上げると男の子はいなかった。やわらかな風が木立を吹き抜けて、呆然と立ち尽くす私の頬をなでていった。
先刻よりも傾いた陽光は並木の表情を美しく変え、ふと私の口許に笑みがこぼれる。
医聖ヒポクラテスは、プラタナスの下で弟子達に医学を説いたという。
今また私も、かつての小さな師に出会い諭されたのだろう。忘れかけた心を。
雨の残響が樹々に虹を掛ける中、濡れた足跡を道に残して、私は軽やかに坂を上っていった。