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一次選考通過 『手』 藤田 亜紀子

 「うわぁ、埜子さんの手、ザ・助産師さんの手って感じでいいですね~」
 埜子は頬が赤らむのを感じながら、反射的に手を引込め、応えに狼狽えた。手を見られることに慣れていないのだ。関節が太く指は短く、爪は貝殻型。女性らしさの象徴であるしなやかさ、細さに欠けた自分の手、いや身体全体が埜子にとってはコンプレックスなのである。手の大きさを比較するシチュエーションや指輪のサイズ合わせ、ネイル、どれもこれらも自分を図られる場面は苦痛を伴い、人の容姿を羨んでばかりだった埜子。人間は欲深いもので、五体満足を願い、それが叶えば、質を求める。足ることを知ることが苦手なのは埜子も同じだ。しかし、三十路を目前に二児の母となった埜子は、内面の豊かさこそが人間の徳であり、苦悩が優しさを作り出すことを学んでいる。人相は人の素性が表れやすいが、「手」には人の歩みが表されると言う。助産婦であれば、どんな手当をしてきたかが見て取れるというのだ。「ザ・助産師の手かぁ…」埜子は両手と向かい合い、短く詫びた。主に愛されず育った可哀相な手が、皺しわの笑顔を見せてくれた瞬間であった。この日を機に不細工な手が好きになりつつある埜子。「手」は飾りではなく、独立した生き物かもしれない。
 埜子は3歳の弟を病気で亡くし、幼い頃から人一倍、命の尊さを身近に感じて育った。命はどこから来て、どこに行くのか。死ぬ運命に有りながらも生きる意味は何なのか。幼き頃から真面目に考え続けた結果、助産師を目指したことは自然な成り行きであった。働きながら生死の疑問が解けかけてきた埜子であったが、命の選別が進んでいく現代。埜子の哲学は深まる。
 命には色んな形があることは、当事者にならなければわからない。親が産まない選択をすれば命の灯は消える。それでも生きたいと体を一生懸命にバタつかせ、埜子の手の中で消えた数ある命。反対に、親の願い叶わず胎児が自ら断つ命も多くある。居た堪れない気持ちは全て、手と心で受け止めるのが助産師だ。悲しみ、苦しみ、哀れみ、怒りを大地である手は吸収し浄化する。埜子の手の中にも、幾つもの命をめぐる物語が刻まれているのだ。
 様々な職種に「神の手」をもつ神の遣いがいる。助産師の世界もその一つ。手がもたらす奇跡がそこにある。埜子の手は巨匠達に近づいているのだろうか。がっしりとして勇ましく皺の多い手を見つめながら「ウワイカムイ様(アイヌ語でお産の神様)、どうぞ私の手にも母子を癒す力をお授け下さい。手を通し、生まれ得なかった魂の思いを、生児の魂の強さに変えられる力を…」人為的に消される命が消える世を恐れ、切に願う埜子の姿がそこにあった。