一次選考通過 『さあ行くよ!』 利根川 嘉子
「さあ行くよ!」
息子を連れてこのプラタナスの坂道を何度登っただろう。
「連れて帰れない、どうしていいかわからないって言うんだよ」
そうドクターから連絡があるたび車を走らせプラタナスの坂道を登って行った。
息子はダウン症。今は何の抵抗もなく言えることが、13年前は誰にも言えなかった。
どうしていいかわからなくて、なぜ自分になのかが歯痒くて、暗闇に迷い込んでしまったように涙が止まらなかった。
そうして13年。あの時なぜそう思ったかもわからないほど息子はよく笑い、よく笑わせてくれる。
何の特別もない。ごく普通の、これで当たり前の毎日なんだということに、なぜあの時は気付けなかったのだろう。
最近新しい出生前診断の話が報道されている。ダウン症などの染色体異常が胎児のうちに解るという医療技術の画期的進歩。しかし同時に安易な命の選択につながり兼ねないと倫理的カウンセリングの重要性も慎重に検討されている。
ダウン症は知的障害を伴う。
ようやく生まれた子どもに「障害があって良かった」と思う人はいないだろう。誰しも五体満足で元気に生まれて欲しいと願っている。
もしもそれが叶わないかもしれないと解った時、妊娠の継続自体を「どうしよう」と考え悩むのは当たり前かもしれない。
13年前の私が言う「そうだよ、だって怖いもの」
13年経った私が言う「そうだよね、でも楽しいよ」
プラタナスの坂道を上り、初めてお会いしたご夫婦も同じ。
「どうしていいかわからない」
そうだよ、誰だって知らない世界は怖いもの。
でも今、その時の話は笑い話になっている。
あんなに暗い顔をしていたのに「イヤ~言わないで~恥ずかしい!」って。
それからみんな口を揃えて言う「かわいくて、かわいくて」と。
知ってしまった世界は、思い悩んでいたよりもずっとチャーミングで笑いに充ちている。
またドクターから連絡があれば息子と共に「おめでとう」を告げに、この坂道を登って行くだろう。
命の質を問うてはならないと、このプラタナスの坂道を登る日が無くなることを願いながら。