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一次選考通過 『教わる』 P.N./愛田 光輝

 四月中旬。この日、一通の封書が届いた。差出人は中沢絵里。それが誰であるかはすぐに分かった。懐かしい名前であった。
 ――玉山昌吾先生。ご退職おめでとうございます。先生、私を覚えていますか。小学校一、二年生の時お世話になった中沢絵里ですよ。母から「確か、玉山先生退職のはずよ」と教えられて、私も気がつきました。母が先生のお年を覚えていたのです。あれからもう三十二年が過ぎたのですね。
 絵里の手紙には結婚して子どもが一人いることも書かれてあった。差出名と最初の数行だけが旧姓であった。
 絵里が不登校傾向にあると知ったのは迂闊にも入学式を三週間も過ぎてからだった。
「絵里ちゃん、お母さんと一緒に来るよ」
 と言う子どもの一言に驚いて家庭訪問をすると、一人では学校へ行けないということがわかったのだ。そういえば絵里は教室でいつもぽつんと一人だったし、友達が遊びに誘ってもいやいやをするだけだった。私といえば専ら子ども達が起こすトラブルの解決に意識が向かっていた。
 私は不明を母親に詫びた。母親の話から推測すると、原因は人への不安であるように思えた。
 私は母親と、絵里の学校での友達作りの見通しを話し合った。父親も時々対話に参加した。何度も家庭訪問をし、軌道修正をした。
 やがて絵里は少しずつ誘ってくれる友達と遊ぶようになり、三学期に入ると友達と登下校をするようになった。
 それなのに絵里が突然、一人で帰ると言い出したのだ。雪の降っている日だった。「心の中を聞かせて」と言っても首を横に振った。
 私は放課後、絵里に一人ぼっちにならないでと説得した。屈んでいる私の肩の上に頬を乗せ、絵里はたくさんの涙を流した。
 次の日の絵里の日記。
 ――わたしはなおちゃんたちがいっしょにかえろうといってもひとりでかえります。でも、あしたからいっしょにかえるよ先生。うまくいくかなあ。わたしはしんぱいです。
 私は絵里の日記を読みながら少し安心した。
 ところがそれから五日後の朝、絵里の右の眉毛の半分がなくなっていた。奇妙な顔だった。私は母親にすぐ電話をした。絵里が自分で毟り取ったというのだ。原因は五日前だ。そう私は直感した。絵里は一人になりたがっている。でも私には不安だった。
 私は自宅の机に向かい、絵里との交換日記を何度も読み返した。蛍光灯の音だけがジージーと小さくなっていた。突然、一つの言葉が私の脳裏に躍り出て広がった。自由……。
 絵里は、はじめて自分の意思で『一人で帰る』ことを選択したのではないか。それは絵里の行動の自由が広がったからこそできたことではなかったのか。それを逆に私は絵里を閉じこめようとしている。なんと浅はかな。私は指導という名の強制を恥じた。絵里にすまなかった。
 次の朝、登校する絵里を玄関で迎えた。
 「ごめんね、絵里ちゃん。先生が間違っていたよ。一人がいい時は一人で帰ってもいいよ」
 頷く私の顔を見て、絵里は本当に嬉しそうに微笑んだ。
 絵里はやはり一人ぼっちではなかった。その日によって選択していた。絵里は一人で歩き始めたのだ。

 絵里の手紙には、母親から聞いた話もあるのだろう。「先生にはたくさんのことを教えていただきました」と書かれてあった。
 だがそれは違うのだよ、絵里さん。先生こそたくさんのことを教えてもらったのだよ。そして少しずつ教師になっていけたのだよ。返事にはそう書こうと思った。