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一次選考通過 『母』 佐々木 虎力

 母が病で倒れたのは戦後間もない昭和二十一年の春、雪解けが遅い三月の終わりの頃と記憶している。留萌沿岸の鰊の漁場で飯炊きの仕事があるからと言って出掛けた母。
 その時、旭川の国鉄管理局から深川の国鉄保線区単身赴任をしていた父は勿論のこと、家族全員が猛反対したが、母は笑いながら言った。
 「辛くなったらすぐ帰ってくるから心配しなくていいってば…」
 家族に心配を掛けたくない母の心遣いなのであろう。しかし、それは貧しい家庭の台所を必死になって守ろうとする母の並々ならぬ決意の表れだと受け止めた。
 数日後、母が飯場で病に倒れたことを国鉄の電話で知らされたとき、父は意味不明な言葉で怒鳴ったように記憶している。
 その夜、父は最終列車で母を迎えに行った。母が寝ている布団を担架ごと貨車に運び終えた父は懸命に母を看病した。しかも、やん衆や女子衆の迅速な対応で、無事に帰ることができた。早速、旭川市立病院に緊急入院。診断の結果、病名は骨盤カリエスという難病であった。現在であれば一本二十数万円もする高価な薬を、一週間ごとに注射すれば治りが早いという医師の言葉に、父は何も言わずに従った。
 両親は十人の子供を育てるため必死になって働いた。特に、母は体を酷使することもやむを得なかったのであろう。鷹栖の農家への出稼ぎ、日本通運会社の貨物列車からの荷下ろし、旭川駅構内の除雪など苛酷な労働に従事した。しかし、過労が原因で病気になったことを知った時、家族の嘆きと悲しみは計り知れないものもあり、途方に暮れた。
 ただ、いくら辛くとも自己犠牲という感情に惑わされる事なく、ひたすらに慈しみの愛を家族にそそぐ母の姿に、深い絆と愛情を肌で感じた。だから疲れきって帰ってきた母に遠慮することなく、思う存分甘えることができたし、そのことがなによりも嬉しかった。
 戦後の食料事情は困窮を極めていた。旭川の住民も、その日の食料を調達するため朝早くから買い出しに出かけるが、ほとんど手ぶらで帰ることも決して珍しくはなかった。わが家も同様であり、食事の時など止むを得ず芋粕・カボチャ・大根の葉など、食べられるものはすべてごっちゃ煮しながら食いつないだ。
 夕食時、母が自分の食べ物を丼に盛ると、ちゃぶ台の上に置き、子供たちが食べ終えるのをじっと待つのである。末っ子の私が食べ終えると母は言った。
 「虎力、母さんの食べていいのだよ」
 その時、すかさず姉が言う。
 「母さん!食べないと病気になるよ」
 と母を気遣う。私が食事を終えると台所に行って腹一杯水を飲む。戻り際、さりげなく鍋の底を覗き、残っているときだけお代わり
をした。
 戦後は確かに、ひもじい思いがしたが、兄弟姉妹が互いに助け合うこと、さらには、母が子供たちにそそぐ慈しみの愛こそが、豊かな人間性を育む糧になることを学んだ。
 春の彼岸になると、何時も思い出すのが母の姿。合掌する気持を忘れない。