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入選 『ラブレター』 五十嵐 法子

 「お母さん、大丈夫?」
 後部座席から娘が聞いてきたが、私は何も答えなかった。車窓の外では、石狩川が暖かな日差しを反射して輝き、街は既にピンクと新緑に染め上げられている。鮮やかな春とは対照的に、私は冷たい白黒の主人の遺影を抱き締めた。霊柩車で渡る旭橋は、いつもより長く感じられた。
 主人がなくなる前日。私と主人は喧嘩をした。住み慣れていたが、あちこちにガタがきていた一軒家を手放し、老後を考えて街中に近いマンションに引越したのだが、その荷造りの途中で主人が誤って私の荷物の一部を捨ててしまっていたのだ。私は泣いて怒った。その中には、主人から貰った手紙が入っていた。ただの手紙ではない。頑固で口下手な主人が私に送ったプロポーズの手紙だった。それはプロポーズと呼ぶには微妙な文面だったが、不器用なあの人がどんな気持ちでこれを書いたかと思うと、それだけで微笑ましく感じられた。もちろん私は、こちらこそ、と返事をした。そうして私達は結婚したのだ。主人が私にくれたのは、あの一度きりだった。だが、だからこそ、あの手紙は私にとって宝物だった。それなのに私がそう言うと主人は「あんな物まだ取ってあったのか」と言った。それで喧嘩になったのだが、次の日の朝、主人が起きてくる事はなかった。脳梗塞だった。私は後悔した。喧嘩なんてしなければ良かった。私達は仲直りの機会を永遠に失ってしまったのだ。
 火葬場から、まだ慣れないマンションに帰ってきた。こんな事になるなら、引っ越さなければ良かった。ここには主人との思い出が殆ど無い。娘が、こもった空気を入れ替える為に窓を開けた。
 「お母さんは座ってて。今、お茶淹れるから」
 私は着替えもせず、郵便受けに昨日から溜まっていた新聞や郵便物を仕分けしていた。ふと、その中に見慣れない封筒を見つけた。差出人の名前は書かれていないが、表には私の名前があまり上手ではない字で書かれている。私はその文字に見覚えがあった。まさか。
 私は奮える手で、しかし慎重に封筒を開ける。そして、中に入っていた一枚の便箋を広げた。間違いない。夫の字だった。
 「お母さん?」
 どうしたの、と娘が心配してこちらへやってくる。違う、違うのよ。悲しくて泣いているんじゃないの。嬉しくて泣いているのよ。そう言おうとしたが、口から出るのは嗚咽ばかりで言葉にならない。手紙にいくつも涙が落ちていく。手紙には不器用な字で、
 『毎年、一緒に桜を見よう』
 とだけ書かれていた。52年前と全く同じ言葉。あの人の精一杯のラブレターだ。消印は主人のなくなる前日。どうやら、喧嘩したすぐ後に書いて投函したらしい。
 近くの公園の桜の花弁が、春風と共に部屋に舞い込んだ。そういえば引越しの時、主人は桜の見える部屋に拘っていた。ひょっとしたらこれも、見えない恋文なのかもしれない。私の顔は綻んだ。全く、不器用なんだから。