プラタナス大賞 『前田先生』 齋藤 良子
中学二年の担任の先生の名前は前田先生と言い、眼鏡の奥の目が静かだった。数学担当だったが私は大の数学嫌い、小学校の分数の計算から迷路に入り、その後の数学はどうやっても理解出来なかった。ある時、すべての教科のテストを並べて、先生は「何で数学だけ出来ないんだ}と職員室で叱られたが、分数で躓いたとは言えなかった。
その前田先生から多くの愛情を貰うことになる。
父を小さい時に亡くし、母は内職の和裁や、近所の農家へ手伝いに行き家計を支えていた。
自分の体を使い切って働く母が倒れねばよいといつもはらはらしていた。
結核療養所に入院している姉と、二つ違いの兄と私の教育費等々、母にとって捻出するのは楽ではなかった。私は、様々な理由をつけてPTA会費などの提出を遅らせて、兄と重ならないように母の懐具合を見ながら貰ったり、家庭科の教材は、古い衣類をほどいてアイロンをかけて持っていった。
そんな私に前田先生は「お前、これ使え」とさりげなく廊下で包みを渡した。それは新しい英語の辞書や、国語の辞書だったりした。
さまざまな会費の納入が遅れても、私が肩身の狭い思いをしないように取りはからってくれた。そして中学三年の修学旅行が近づき、私は初めから行けないと諦めていたある日、職員室へ呼ばれて「お前、修学旅行へ行ってこい。金はもう払い込んである」と言われた。思いがけないのと、嬉しさと、申し訳なさとで胸が熱くなった。
三年生になりすでに担任を外れていたのに、いつも何処かで見ていてくれた。
やがて卒業式が近づく頃、母は私の知らない間に雑巾を一〇〇枚ほど縫い上げていた。
そして卒業式当日、私に風呂敷に包んで渡しながら「お前が先生に沢山お世話になったのに何一つお礼が出来ていない。いつかお前がお返ししないといけないよ。今、母さんが出来ることはこんな事しかないが、先生に渡しておくれ」と包みを渡された。
私は正直、渡すのは恥ずかしいと思ったが、母の気持ちを思えば口には出せなかった。卒業式の後廊下で、母の言った通りの言葉を伝えて包みを差し出した。先生はとても厳しい顔になり「なんだ、こんなもの持ってきて」と私の手を払った。包みがほどけて、雑巾の束が廊下に散らばった。先生ははっとして「済まん、悪かった」と言い、二人で泣きながら雑巾を拾い集めた。先生は私を抱きしめて何度も「悪かった、ごめんよ」と言って職員室へ包みを持っていった。
遙か昔の事ながら、いつでも私の心を熱くし、頂いた愛情を私も人に配らなければいけないと心に誓って生きてきた。
生涯の灯りとして私の心に消えることのない明かりを点してくれた先生であった。