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一次選考通過 『福寿草』 岩野 国広

 芽吹き始めたプラタナス並木を運転して、私は週に五日この病院に来る。
 貧しい農家の二男だった私は、中学校での成績は悪くなかったが、定時制高校に入学した。陽のある内は農作業を手伝い、一人で夕食を摂り、二キロほどの砂利道を通った。下校する中学の級友の姿を見ると、目を伏せて通り過ぎた。農作業の疲れから、睡魔に襲われることもしばしばだったが、休みの日も自宅学習は欠かさなかった。四年生のある日、「全日の生徒と一緒に、大学受験の模擬袰試験を受けてみないか」と担任から話があった。進学できる状況になかったので受けても仕方がないと思ったが、親友のA君とB君の勧めもあって受けてみることにした。結果は、三百人余りの中で三十八番だった。結果をみて、担任からも親友からも、進学するようにと強い後押しがあった。自動車関係の仕事をするのが夢だった私は、学費では迷惑をかけないから、と父に進学を懇願した。そして、室蘭にある工業大学に合格。奨学金を受けて勉強し、夕方からはアルバイトの毎日だった。それでも、下宿代を払い本を買うと、自由に使える金など無かった。
 進学した年の七月、親友から連名で現金封筒が届いた。その中には一万円札が二枚入っていた。「俺たちは、先日ボーナスをもらったよ。これを学費の足しにしてくれないか」という手紙が添えられていた。頬を伝う涙を拭うのも忘れて、私はその手紙を何度も読み返した。夏冬のボーナス期の手紙と現金は、卒業するまで続いた。二人の励ましと送金がなかったら、異郷での四年間の勉学に、果たして私は耐えることができただろうか。
 卒業後、苫小牧にある大手の自動車会社に就職し、エンジンの開発チームで力を尽くすことができた。
 時は流れて、部長で退職した私は旭川に戻った。「月に一度は、三人か夫婦六人で呑もう」と決めて一年ほどが過ぎた三月、A君夫妻が大阪に転居することになった。長男が会社を起こすので、A君は顧問として力を貸すことにしたという。恩返しらしき事もできないままの旭川空港での別れに、周りの目もはばからずに肩を抱き合って泣いた。
 そして、翌年の一月。B君夫妻が年始の挨拶に来てくれ、杯を重ねて思い出話をしている時、彼が激しい頭痛を訴えて倒れた。脳梗塞だった。一命を取り留めはしたが、右半身に後遺症が残り、今この病院に入院している。三か月ほどリハビリに歯を食いしばってきた彼が、杖の助けを借りてではあるが、今日は十歩余り歩いた。彼の萎えた手足をさすりながら励ます事が、私がB君に今できるたった一つの恩返しである。
 雪に埋もれて耐えてきた福寿草が、プランターに植えられている。その花は、早春の陽光をいっぱいに受けて蜂蜜色に輝いている。それを自動ドアの向こうに見ながら、二人に返し切れない恩は社会に返したいと、案内係のボランティアとして、私は病院のロビーに今日も立っている。