三浦綾子記念文学館特別賞 『母の預金通帳』 長谷川 裕二
私が強いてきた苦労がたたったのか、古希を境に高血圧症・動脈硬化症・糖尿病といった生活習慣病が顕著になった母は、関節リウマチも発症して歩行がおぼつかなくなっていき、現在は複数の医療機関で治療に専念している。
冬将軍が居座るある日の朝、いつものように母の通院に付き添うべく、冷たくかじかむ手でハンドルを握った。
道中、凍て付いたバス停にたたずむ老女の姿を見て、不意に心が冷えた。買い物へ出掛けるには早すぎる時間帯でもあるし、もし老女も通院のためにバスを待っているのだとするなら、身を切るような酷寒の中、気の毒な話でもある。他人様の抱えている事情を詮索するつもりなど毛頭ないが、外出先に連れて行ってくれる家族は誰もいないのかな?と首をかしげるだけで、ヒーターの効いた車内でさえも呼吸が氷に化けそうだ。
「こんなに寒いのに。あのお年寄りには申し訳ないけど、母さんには裕二がいてくれるから通院に不自由しなくて助かるわ。おかげで家の玄関から病院の玄関までだもの」
後ろの席の母もあの老女に気づいた模様だが、私と同じ感情を吐露したというよりも、むしろバス停にたたずむ老女に半世紀以上も前の自分の姿を重ねていたのだろう。
1960年に国内で死者が続出した伝染病の“小児まひ”を知る人も今は少ない。乳幼児の脊髄を蝕み、呼吸筋や手足の動きをそぐポリオウイルスに、生後1歳余りだった私も感染し、四肢に深刻なまひが現れた。死んだみたいにぐったりと動かぬ私をおぶり、雨の日も雪の日もバスに揺られて、肢体不自由児のリハビリ施設に2年も通ってくれたのに、結局は重い後遺障害のせいで、一度きりの青春をむしり取られる定めをあてがわれた。
醜い容姿を理由に受けた子供時分の意地悪は泣いて済んだが、社会へ出て被った嫌がらせは陰湿で、やり場のない怒りのはけ口を、罪のない母に向けてばかりの毎日だった。
罰が当たったにも等しい。機械油にまみれての重労働も災いし、40歳を目前に力尽きてしまい、医師に「もう一般の就労は無理です。入院が必要です」と診断された私に、母は「医師の診断に背いて命を落とすより、粥をすすってでも親より長く生きる事を考えなさい。裕二が、裕二自身の体に痛めつけられてきて、つらかったと思う」と慈悲深かった。
罪滅ぼしと言えば聞こえも良いが、歩けなかった私をおぶってくれた日々は取りも直さず、母は私という“預金通帳”に老後の通院手段を金銭ではない形として積み立てていたのだと捉え、今日に至っている。これからもすべての通院に付き添うし、利息分もあるので、年に二回や三回は故郷の旭川へも連れて行きたい。
今春、めでたく傘寿を迎えた母に、いまだに後ろめたい気持ちが一つだけくすぶり続けている。私が小児まひを患った段階で消えていなくなっていれば、母の人生はもっと自由で楽なものだったに違いない。そう思うたびに涙腺が緩んでしまう。