プラタナス大賞 作品発表
入選 『白鳥への最後の贈り物』 松田 青空ちゃん(小学2年生 8歳)
わたしは、まつもとりんね。わたしは、3さいのころからピアノをはじめてます。6さいにピアノのコンサートがありまして、大成こう。もう少しで16さい。もうすこしあと2年くらいで、ピアニストになれるよ。それまでコンサートホールでまた、ピアノをひくの。まい日コンサートホールは、大きいピアノ、それもまた、1人で。ほんとうは、わたしのおともだちが1人だけいてそのこはねねちゃんっていうの。すえひろねねこっていうよ。そのこがあさってくらいにコンサートホールで、やるんだけど、なぜかいっしょのコンサートホールなのよ。わたしはピアニストになってもしかすると、テレビに出るかも。「フフフッたのしみ」。それまであのヒミツの本をよもっ。その本は『ピアニストへの道』っていうんだけどそれをもっていればなんだか、ピアニストになれそうな気がしていてあともうすこしで、それまでそのヒミツの本をよんで大きくなってピアニストになれるまでね。そういえばココのコンサートホールにすこしゆうめいな女の人がいるときいて、たしか名前が「ゆうか」っていってもうすこしであと1か月ぐらいでピアニストになりそうでもしかしたら、そのゆうかっていう人のりんねがでしになれるかも。きょうのよる、ほしがとてもキレイでわたしは、ピアニストへの道の本をこのままもっていてこの本をたんじょう日にママとパパに見せてあげたい。それは、その本はわたしのたんじょう日ように、そっとそのわたしのヒミツの本だなに、こそっとずっとしまっていたの。それに、そこには、あのゆうかさんっていう人にお手がみもらったの。すごくうれしかったよ。そのときはむねがドキドキしたよ。だってそれもちかくでわたされて、あの人の大ファン。そして、ピアニストになって、ほめられたらうれしいな。いつかでもなる。そのつぎの日についにピアニストになれて、きゅうになってびっくり。でもあしたはあの人にあってくる。
一次選考通過 『ヒポクラテスの樹』 P.N/不意の鈴(ふいのすず)
暖かな陽射しの中、緩やかな並木の坂を、私はアスファルトを蹴りつけ歩いていた。流れる汗が襟元をつたいスーツに滲みてゆく。こんな日に限ってタクシーも捕まらないとは。
坂の上にある大学病院に私は勤めている。中堅医師に日々の業務は重く、気楽な医学生時代は遠い日の夢だ。
並木沿いの教会で結婚した若い同僚は、通り雨に降られても終始晴れやかだった。この後皆は街に繰り出すのだろう。しかし、私には患者が待っている。正午の勢いは既に無い太陽も、私を苛立たせた。
立ち止まって荒い呼吸を整え、木漏れ日を睨みつける。
「おじさん」
不意に足下から声が聴こえた。私は、小さな男の子が傍らにしゃがんでいることに漸く気付いた。
「僕、帽子を落としちゃった」
泣き出しそうな顔に、私は見覚えのある気がした。土手下へ目をやると、草むらに野球帽がぽつんと一つ。取りに行くのは造作も無いが、問題は一刻前の雨だった。男の子は黙って私を見上げている。
困惑する私は、それでも覚悟を決めた。
男の子に待つように告げ、私は恐る恐る勾配を下った。水はけの悪い草むらに足を踏み入れると、下ろし立ての革靴はたちまち冷たい雨水に侵される。私は顔をしかめながら、ふと研修医の頃を思い出した。
雪の降る季節、私は白血病の男の子を受け持っていた。まだ5歳だった。治療が奏功せず、瞬く間に彼は弱っていった。冷たく白い壁に囲まれた病室で、幼い彼は驚くほど気丈に振る舞っていた。幾つもの管に繋がれ、薬剤の副作用も辛いはずだった。
「平気だよ、僕」
病室の外で母は泣き崩れた。
病勢が一段と悪化した頃、彼は病室から出ることができなくなった。見舞いの友人にも会えなくなったとき、初めて彼は私に言った。
「先生、僕、あの坂道に行きたいんだ」
病気が治ったらまた行けるよ、と私は応え、彼の冷たくなった指を握って温めた。夏の終わりと共に私は小児科を去り、半年後に彼が遺したという手紙を受け取った。手紙の中では私の似顔絵が、ありがとう、の言葉とともに笑っていた。
私は、男の子が、かつて担当した患者と容姿、年の頃が瓜二つなことに思い至った。あの患者はこの辺りに暮らしていた。母親はまだ若かったから、あの患者の弟なのかもしれない。
やっとの思いで野球帽を手に掴み、土手に取りすがる。手を伸ばして帽子を受け取るように促すと、一瞬男の子の手が触れた。温かな体温が感じられた。
「ありがとう、先生」
顔を上げると男の子はいなかった。やわらかな風が木立を吹き抜けて、呆然と立ち尽くす私の頬をなでていった。
先刻よりも傾いた陽光は並木の表情を美しく変え、ふと私の口許に笑みがこぼれる。
医聖ヒポクラテスは、プラタナスの下で弟子達に医学を説いたという。
今また私も、かつての小さな師に出会い諭されたのだろう。忘れかけた心を。
雨の残響が樹々に虹を掛ける中、濡れた足跡を道に残して、私は軽やかに坂を上っていった。
プラタナス若葉賞 『煙草の香り』 袰地 晴貴 君(中学3年生 15歳)
今日で二十歳になり、初めて購入した煙草を部屋でふかしてみた。
そして、ふと鼻に入った煙草の匂いが何処か懐かしいような、そんな感じがした。疑問に思った僕は直ぐ過去の記憶を探ったが、中々見つからない。仕方なく2本目の煙草を口にして、ゆっくり思い出すことにした。
いつの記憶だろう。高校?いや違う。中学、それも違う。いつの頃だろう。そんなことを思いながら、2本目の煙草を窓から捨てようとし、溜息を吐いた。そして溜息と同時に、思い出した。
「嗚呼。……父さん」
僕の父は小学3年に上がる頃、末期癌を患っていた。医者からは、もう1年持たないと言われ、母はひどく泣いていたのを覚えている。だが、父は戦った。少しでも生きようと。しかし、現実はそう甘くなかった。闘病して1年と半年、父は帰らぬ人となった。その日は母も僕も泣いた。
父が癌だと宣告された日よりも、何倍も、何倍も。
そんな父との思い出、いや、印象は、よく煙草を吸う人であった。
「ヘビースモーカー」父はそれになると思う。一日二箱は当たり前、僕の幼少期は、ほとんど煙草の煙で埋め尽くされた思い出しかない。まぁ、癌を患ってからは煙草を吸うことはなくなったが。
そんな父はよく煙草を捨てるとき、溜息を吐くのが癖だった。癌になると吸えなくなるからと、スティック菓子を口にくわえながら、「嗚呼、やっぱり煙草がすいてぇ」と言いながら、溜息ばかりついていた。
煙草を吸いながら、今父は天国で、傍で僕を見守ってくれているだろうか。
時々そんなことを思う。僕が煙草を吸っている姿を見て、「煙草は体に悪いぞ」なんて怒るのではないだろうか。
または、「やっぱり俺の息子だなぁ」なんて遠い目をしながら言うのではないだろうか。そんなことを想像していると、自然に笑みがこぼれた。
父との思い出は数少ないが、どれもこれも、今も鮮明に覚えている。自分の頭の中では「父=煙草」みたいで、煙草を吸うと、この日以来も時々不意に思い出すことが多くなった。
同時に、煙草を吸うのは決まって嫌なことがあった日や、苦しく悩んでいるときに多いことに気が付いた。結局父は思い出の中で生きているのだなって、苦笑いしながら思った。
「ありがとう」
この日は珍しく、何もないのにまた、煙草が吸いたくなった。
一次選考通過 『手』 藤田 亜紀子
「うわぁ、埜子さんの手、ザ・助産師さんの手って感じでいいですね~」
埜子は頬が赤らむのを感じながら、反射的に手を引込め、応えに狼狽えた。手を見られることに慣れていないのだ。関節が太く指は短く、爪は貝殻型。女性らしさの象徴であるしなやかさ、細さに欠けた自分の手、いや身体全体が埜子にとってはコンプレックスなのである。手の大きさを比較するシチュエーションや指輪のサイズ合わせ、ネイル、どれもこれらも自分を図られる場面は苦痛を伴い、人の容姿を羨んでばかりだった埜子。人間は欲深いもので、五体満足を願い、それが叶えば、質を求める。足ることを知ることが苦手なのは埜子も同じだ。しかし、三十路を目前に二児の母となった埜子は、内面の豊かさこそが人間の徳であり、苦悩が優しさを作り出すことを学んでいる。人相は人の素性が表れやすいが、「手」には人の歩みが表されると言う。助産婦であれば、どんな手当をしてきたかが見て取れるというのだ。「ザ・助産師の手かぁ…」埜子は両手と向かい合い、短く詫びた。主に愛されず育った可哀相な手が、皺しわの笑顔を見せてくれた瞬間であった。この日を機に不細工な手が好きになりつつある埜子。「手」は飾りではなく、独立した生き物かもしれない。
埜子は3歳の弟を病気で亡くし、幼い頃から人一倍、命の尊さを身近に感じて育った。命はどこから来て、どこに行くのか。死ぬ運命に有りながらも生きる意味は何なのか。幼き頃から真面目に考え続けた結果、助産師を目指したことは自然な成り行きであった。働きながら生死の疑問が解けかけてきた埜子であったが、命の選別が進んでいく現代。埜子の哲学は深まる。
命には色んな形があることは、当事者にならなければわからない。親が産まない選択をすれば命の灯は消える。それでも生きたいと体を一生懸命にバタつかせ、埜子の手の中で消えた数ある命。反対に、親の願い叶わず胎児が自ら断つ命も多くある。居た堪れない気持ちは全て、手と心で受け止めるのが助産師だ。悲しみ、苦しみ、哀れみ、怒りを大地である手は吸収し浄化する。埜子の手の中にも、幾つもの命をめぐる物語が刻まれているのだ。
様々な職種に「神の手」をもつ神の遣いがいる。助産師の世界もその一つ。手がもたらす奇跡がそこにある。埜子の手は巨匠達に近づいているのだろうか。がっしりとして勇ましく皺の多い手を見つめながら「ウワイカムイ様(アイヌ語でお産の神様)、どうぞ私の手にも母子を癒す力をお授け下さい。手を通し、生まれ得なかった魂の思いを、生児の魂の強さに変えられる力を…」人為的に消される命が消える世を恐れ、切に願う埜子の姿がそこにあった。
一次選考通過 『選択道』 坂本 晴奈
例えば、今日会社を休んだら。
例えば、今から飲みに行ったら。
例えば、最低限の荷物を詰めて空港に向かったら。
なんて、まだ夢と現実の境目がわからないほどにぼーっとしている頭で考えてみたけど、結局私はいつも通りうるさい目覚ましを止めてベッドから起き上がる。
いつも早く起きられない朝。
のそのそ起きて顔を洗い髪を整え、今日も少し焦がしたパンと野菜ジュースを流し込み、パタパタと朝の準備。
会社が嫌いなわけじゃない。仕事が嫌なわけでもない。
人間関係も良好だし、お給料も満足で不景気を嘆いてもいない。
ただ、いつもこの頭が考えてしまう。
今選んだ道ではない方向へ進んでみたら何かが変わるのだろうか、と。
どの道が正しくて、どの道が間違っているのか、と。
世界を変えるわけでもない、ほんの小さな選択肢。
今不幸せなわけじゃないけど私のとびきりの幸せはどの道に進めばあるのだろうか。
地図のない大人の世界に幸せ看板が立ててあれば良いのに。
小さい頃は無限に広がっていた道も、大人になると無難な方を選んでいる自分がいて「ああ、これが大人になるってことなんだ」なんてまだまだ子供の頭でわかったような気になって。
上司は「二十代なんてあっという間に終わっちゃうんだから思いのままに進んでみろよ」と爽やかな笑顔を私に向けて言った。
その言葉を思い出しながら電車に揺られ、じゃあ彼の二十代は思いのままに生きたのか、それともそう生きられなかったから私に助言をくれたのか、三十分そんな事を考えながら駅に着く。
音を鳴らしてヒールで歩くカッコ良い大人の女性たちに憧れたあの頃の私は、今の私の姿を見てあこがれの自分になれた!と喜んでくれるのだろうか。
「おはよう」
あ、やっぱり。やっぱり今日も会社へ来て良かった。
飲みに行かなくて、空港へ行かなくて良かった。
上司の笑顔の「おはよう」に私の道は間違っていなかったと気付かされる。
彼の声、彼の笑い皺、朝の澄んだ空気に柔らかで暖かい日差し。
「あ、おはようございます。今日もカッコ良くて素適ですね」
「朝から何言ってんだ、おじさんをからかうな」
「からかってなんかないですってば。いつも本心です」
「はいはい。ありがとう」
どの道の選択肢が彼の心に繋がるのだろうか。
結局何を考えていても最後に考えてしまうのはどうしても彼の事なんだ。
私の選んだ進む道に、私と彼の幸せがあれば良いななんて、気持ち悪いことを考えている自分が実はそんなに嫌いじゃない。
やっぱり私には世界が輝いて見えるのだ。
一次選考通過 『母の手』松井 遙
「生きている意味がわからない。私なんて、いなくなればいい」と口に出してみた。
傍らでその言葉を黙って聞いていた母。
何もかもがどうでもいいと、むしゃくしゃしていたあの日。
私は居た堪れなくなり、薄着のまま、吹雪の外へ飛び出した。
何も考えず、走り出したくなった。
視界は真っ白だ。
私はあろうことか、足を滑らせ川に転落した。
手足の痺れで気がついた、真冬の川の水の冷たさを知る。
私は自分の背丈よりも髙い、雪の崖から転落したのだった。
どんなに跳ねても、届きやしない。
雪の崖に手足を食い込ませようとしても、がりがりと崩れていくだけだった。
川に突っ込んでいる足がさっきまであんなに冷たかったのに、燃えているかのように熱く感じる。
「死にたくない」と泣きながら雪の崖を、感覚のない両手でよじ登ろうとしたってもう遅い。
このままだったら、生きていられないという事はわかった。
こんな吹雪の中、凍てつく川原を散歩している人がいる筈もないのだし。
「助けて!」という言葉だって、吹雪の声に掻き消される。
「私、さっきあんな事を口にしたから、罰が当たったのです」と、ただ思った。
軽率だった。
そんな中、私を呼ぶ母の声がした。
母は、一目散に川へ飛び込んできた。
何の迷いもない姿が、信じられない程だった。
寒さに震えながらも、雪の崖の上へ私を押し上げる母の手。
母のおかげで、私は助かった。
私は雪の崖の上から、凍えた手を母に差し出す。
しっかりと握られた母の手を精一杯、引き上げる。
心配かけて、ごめんなさい。
寒い思いをさせて、ごめんなさい。
馬鹿な娘で、ごめんなさい。
「帰ろう」と私の手を引く、母の手。
そうだった。
幼い日の帰り道も、そうだった。
ここにあるのは、いつだって変わらない、母の手だ。
「生きている意味がわからない。私なんていなくなればいい」なんて二度と口に出さない。
私は私に約束する。
あの時の母の手が、今でも私を支えている。
一次選考通過 『ああ、よかった』 P.N./大田さと
「母さん、今日はあったかいから散歩に出てもいいって先生が言ってたんだ。今車いすを用意してもらうから、少し待ってて」
お父さんの声が少しだけはずんでいる。今日から六月だって朝来た看護婦さんが教えてくれたのよ。天気もいいから、ご主人がいらしたら散歩に出られるかもしれませんねって。
だから今日はお父さんを心待ちにしてたの。嬉しいわ。私がそう答えると、私の体がゆっくりと浮き、そっと下ろされて温かな毛布が掛けられた。
久しぶりの太陽の匂い。子供の声。顔に柔らかくふれる風も、陽の温かさも、全部わかりますよ。何も見えなくても、何も話せなくても。
「朝病院に来る途中にライラックが咲いているのを見つけたんだ。白いやつでさ、きれいだったわ」
お父さんは笑みを含んだ声で私に話しかける。そして不意に車いすが止まった。
「ああ母さん。ほら、そこにも咲いてるわ。紫のライラックが」
そうね。いい香りがするもの。私は昔見たライラックの紫を思い浮かべると、ふと額にお父さんの分厚い手が触れた。
「アスパラの天ぷら、食いてえなあ。母さんの揚げるのが一番うまいもな。あと時鮭のフレークも。買ってきたフレークはなんだかうまくねえんだ」
お父さん、ごめんなさいね。倒れた日、買ってあった時鮭をフレークにしようと思ってたのよ。でもなんだか体がだるくて、明日でいいかって思ってしまったの。こんなことになるなら無理してでも作っておけばよかった。あんなの簡単にできるのに。引き出しのノートを見つけてくれるといいんだけど。そうだ、きっといつか里良が見つけてくれるわね。あの子が来た時はいつも私の引き出しを開けて色鉛筆を出してお絵描きしていたから。私は札幌に住む孫娘の里良を思い浮かべた。リラはライラックのフランス名だ。娘が新婚旅行で行ったフランスを気に入り、ライラックの咲く季節に生まれた娘に里良とつけたのだ。そうだ。あと三日で里良は四歳になる。私が病院にお世話になって二年になるんだから。
「明日里良の幼稚園の運動会だから、ちょっと札幌に行ってくるわ。正月以来会ってないもな。おっきくなってるべな」
お父さんはそういうと、またゆっくりと車いすを押してくれた。
月曜日。
「里良おっきくなってたわ。楽しそうだったあ。かけっこなんて隣の子とニコニコしながら走ってるんだ。そして二人して仲良くビリッケツでさ。大笑いさ」
お父さんは私の手を握り、本当に楽しそうに話を続けた。
「香里の作った弁当もうまかったわ。おにぎりの鮭フレークが母さんのと同じ味だったのさ。里良の好物が鮭フレークなんだって香里が笑うんだ。正月に里良が見つけた母さんのノート見て作ったらえらく気に入って、毎日ごはんにかけて食べるってきかないんだとさ」
ああよかった。心残りだったフレークをみんなに食べさせてあげられて。私安心したわ。みんなが幸せそうで。ありがとう。愛してますよ、お父さん。
一次選考通過 『お風呂やさんと私』 畑山 有希
「え~、うそぉ。今3月なのに…」北の春はいつも遅い。にしても、今年の雪融けの遅さは例年以上で、3月下旬だというのに、今もカーテンを開けた瞬間目に飛び込んでくる、うっすらと白い景色に思わず、声を上げる。早朝音もなく静かに積もったのだろう。
ここ、ナナカマドが、シンボルの花の、雪深い街で家を建てたのは、私が小学校高学年の時。
家のすぐ目先、歩いて2分の場所に小さな銭湯があった。すぐには利用せず、お湯が出なくなった…とか、夏あまりに、暑いので家でお湯を沸かさずに…とか何かきっかけがあり、利用し始めるようになったはずだ。
温泉は旅行等で行ったことがあったが、銭湯というのは記憶の限り初めてで、その脱衣所の狭さや、番頭さんが見える位置に座っていることに驚いた。しかし、すぐに慣れ頻繁に通うようになった。床の青っぽい畳、古い木造のロッカー、懐かしい響きの演歌。何故こんなにも心地よいのだろう。何故こんなにも、心静かに落ち着いていくのだろう。―ああ。似ているのだ。ここは、母が子ども時代を過ごした、祖母と曾祖母が2人で暮らしていた木造の古い家に―
こっくり、こっくり。
私は夜入りに行くことが多く、番頭の初老のおじさんは、いつも居眠りをしていた。どちらかというと、私は人見知りで、人の目を見て話すのが苦手だったので、逆にそれがありがたかった。
「お願いします」そっとお金を置く。「あっ!はいはい…。ちょうどね!」引き戸を開けて入ってくることに気づかなかったおじさんは、そこでやっと気付き、慌てて対応してくれる。
そんな冬のある日、珍しく閉店30分前のやや遅い時間に弟と出掛け、時間を肌理、待ち合わせをした。
時間になり、多分出ただろうと、靴をつっかけ、「どうも~」と出ようとした瞬間、珍しくおじさんが目を開き、「あっ。ちょっと待ってね」と私を静止した。「?」数秒して、「はい、いいよ~」との声の後、弟の「どうも~」といいガラガラ引き戸を開け外に出る音が聞こえてくる。「あ。はい。どうも」と外に出て、弟と並んで帰りながら、おじさんが私が思っているよりずっと見ていてくれてることを知る。姉弟って知っていたんだ。暗いし、家がこんな近いのも知らないもんな~。優しさにポッと心が灯る。
3月も今日で最後なのに、まだ一面雪景色。私は4月から本州の大学に進学する。受験勉強で忙しくなかなか来られなかった銭湯に久々に足を運ぶ。こっくり。こっくり。ストーブに照らされたいつもな赤い顔。言葉はなくても安心する空間。ざぶん。お気に入りのぬるめの湯に入る。「いいち。にいい」誰もいないので声に出してみる。何故か昔父と風呂でかけ算を練習したことを思い出す。帰りがけ、どうもといいかけ、いい直す「あの」「はい」おじさんがちょっと驚き、目を開く。私は、ゆっくりと不思議な程落ち着いた響きの声で、この地を離れることを伝えた。
言いながらだんだん我に帰り、さぁっと冷めゆく自分に気づく。私は何をくちばしっている!まともに口をきいたこともないのに……でも…「そうでしたか」おじさんは、いつもの表情からは想像もできないくらい、紳士のような真面目な面持ちで私を見た。そして、目を見て顔を上げ、一言「頑張ってね」そう言った。どこまでも、ただひたすらに優しい笑みを浮かべ。
外に出る。ひゅうと地吹雪く風。でももう春の風だ。「あ」泥混じりの雪の中に小さな花を見つける。いつから眠っていたのだろうか。小走りに歩きだす。ポカポカとする胸の温かさを感じながら。
~おじさん、元気でいてね~
一次選考通過 『さあ行くよ!』 利根川 嘉子
「さあ行くよ!」
息子を連れてこのプラタナスの坂道を何度登っただろう。
「連れて帰れない、どうしていいかわからないって言うんだよ」
そうドクターから連絡があるたび車を走らせプラタナスの坂道を登って行った。
息子はダウン症。今は何の抵抗もなく言えることが、13年前は誰にも言えなかった。
どうしていいかわからなくて、なぜ自分になのかが歯痒くて、暗闇に迷い込んでしまったように涙が止まらなかった。
そうして13年。あの時なぜそう思ったかもわからないほど息子はよく笑い、よく笑わせてくれる。
何の特別もない。ごく普通の、これで当たり前の毎日なんだということに、なぜあの時は気付けなかったのだろう。
最近新しい出生前診断の話が報道されている。ダウン症などの染色体異常が胎児のうちに解るという医療技術の画期的進歩。しかし同時に安易な命の選択につながり兼ねないと倫理的カウンセリングの重要性も慎重に検討されている。
ダウン症は知的障害を伴う。
ようやく生まれた子どもに「障害があって良かった」と思う人はいないだろう。誰しも五体満足で元気に生まれて欲しいと願っている。
もしもそれが叶わないかもしれないと解った時、妊娠の継続自体を「どうしよう」と考え悩むのは当たり前かもしれない。
13年前の私が言う「そうだよ、だって怖いもの」
13年経った私が言う「そうだよね、でも楽しいよ」
プラタナスの坂道を上り、初めてお会いしたご夫婦も同じ。
「どうしていいかわからない」
そうだよ、誰だって知らない世界は怖いもの。
でも今、その時の話は笑い話になっている。
あんなに暗い顔をしていたのに「イヤ~言わないで~恥ずかしい!」って。
それからみんな口を揃えて言う「かわいくて、かわいくて」と。
知ってしまった世界は、思い悩んでいたよりもずっとチャーミングで笑いに充ちている。
またドクターから連絡があれば息子と共に「おめでとう」を告げに、この坂道を登って行くだろう。
命の質を問うてはならないと、このプラタナスの坂道を登る日が無くなることを願いながら。
一次選考通過 『しあわせ時間』 髙野 ひろみ
子供の忠告などには耳を仮さない、可愛げのない母だった。子供のすることには人一倍口うるさい、うざい母だった。御年77才。大人になっても親からみれば子供は子供と言いきり、親という鎧を外すことはなかった。
ある日バリバリ元気印の母が、ぜんまい仕掛けのねじの切れた人形のように動かない。はて、どうしたものか。救急車で運ばれた先で告げられたのは脳梗塞。いやいや先生、持病は心臓、なので脳であるわけがない。頭の回転は早いし、計算も早いし、可愛げないし、うざいし。心の中で意味不明なことを叫んではみたものの、病状に適した治療がすぐさま始まった。
神様、仏様。気軽にでる言葉に心底すがったことはない。なのに今回ばかりは意識せずとも脳裏を駆け廻る。可愛くなくてもいい、口うるさくてもいい、どうか神様仏様、助けてください、お願いします。
そうして数日後、気丈な母はいなくなった。正確にはその変りなのだろうか、すっかりアクの抜けたわらびのような気負いのない母とおもわれる人がそこにいた。入れ歯を外した顔など見せたことがない、それすら弱味とおもうのか、初めて見る顔に、あら、意外とかわいいんじゃない。
まもなく未知の生活が始まる。入れ歯を洗い、髪の毛を束ね、着替えを手伝う。ごはんの支度やトイレに付き添い、お風呂に入れる。考えもしなかった俗にいう親の面倒をみる、という行動が子育てをしていない私は日に日に面白くなってきた。アクの抜けた母は頗るかわいい、親バカならぬ子バカと言うのか介護が楽しくてしょうがない。手が動き、足が動き、無表情から笑顔になり、持ち前のがんばりもあって何年もかかったけれど、ひと通り自分のことができるようになってきた。欲もでてきた。食べたいものや見たいもの、聞きたいことやしたいこと。一生懸命生きてきたのだ。この先好きに過ごせば良い。
ところでアクの強い癖のある、あの性格はどこへ行ってしまったのか、先生が血栓と共に取ってくださったのか。
そういえば最近の私は、「ほれ、何してるの」「ほれ、言ってるでしょ」とほれほれおばさんになっている。こんな子だったかな、と首を傾げる母に、育てたように子は育つと可愛いげのないことを言い放っては煙たい顔をされている。それでも良い、こんなに楽しい時間と一緒に過ごせる環境を頂いた。
神様と仏様はひょっとして、母ではなく私を救ってくださったのか。それではもう少し願い事を、とはいくら何でも恐れ多い。
ならば亡き父よ、その日がくるまで見守っていてください。