体罰の是非(後編)
赤ちゃんの離乳がほぼ終了し、一日三度の食事の練習を始めるのは九ヵ月以降からが一般的です。
それ以前からでもいけないわけではないのですが、九ヵ月が目安というのは「食事の始まりは躾の始まり」なので、赤ちゃんの精神的発育が間に合っていないとうまくないからです。
この時期、赤ちゃんの我儘でテーブルを引っかきまわしたりした時に、その手をバチンと一発やらなくてはなりません。
ほとんどの親は、これが最初の体罰です。
体罰はせいぜい三歳ぐらいまでと言われていますが、もっと後になってもやらなければならない時もあるでしょう。
もちろん言ってわかるのなら体罰はいらないのですから、できるだけ早く体罰はやらないで済むようにするのが基本です。
とはいえ、子供に対して体罰を加えている時、親は決して冷静な気持ちでやっているのではないというのも事実です。
つまり親はカッとなってやっているのです。私はそれでいいと思います。
よく、「体罰を加える時は冷静な気持ちになって、なぜこの子に体罰を加えなければならないかを親が納得し、叩く時は頭や顔を避けてお尻を叩くべきだ」などという言葉を聞きます。
理屈を並べればそのとおりかもしれません。
しかし、私がその叩かれるほうの子供だったら、こんな薄気味の悪い親はご免こうむりたい。
子供を育てていく時、もちろんそこには理性がなければなりません。しかし育児の原動力となっているものは愛情です。
決して理屈で子供を育てているのではないのです。
子供が何か悪いことをした時、親の平手打ちが飛ぶのは、今、その子のしたことが親の人生観や生き方から大きく外れていて、とても黙って見逃すわけにはいかないので、親はクドクド説明するのももどかしく、カッとなってひっぱたくのです。
これは親が一人の人間として瞬間的に価値判断をした結果です。親のまなじりはつり上がっているし、いつもやさしく抱っこしてくれるお父さんやお母さんの顔は、この時ばかりはひきつっています。
子供は叩かれた痛みより、親のこの時のただごとではない顔を見て、〝これは容易ならぬことになった″と思い、〝お父さんやお母さんのこんな恐ろしい顔を見るようなことにはなりたくない、もう二度と今回のようなことはするまい″と思うでしょう。
さらに、毎日一生懸命に働いて自分たちをやさしく育んでくれているお父さんやお母さんは、何を大切にして生きているのかということが、おぼろげにでもその子なりにわかるでしょう。これでこそ体罰の効果があるのです。
それを冷ややかに「この子のために、この子は今、叩かれなければならないのだ」などと、まるで昆虫のような無表情な顔をして叩かれたら、叩かれたほうの立つ瀬がないではありませんか。
母子関係の理論を大成させたJ・ボウルビィも同様のことを言っており、彼も体罰に不賛成ではありません(『ボウルビィ 母子関係入門』)。