体罰の是非(前編)
私の長男が中学生のころ、妹たちに向かってよく言っていた面白い言葉があります。
― 「お前らはいいな。おやじもやさしくなったから。オレだったらもう今ごろぶっ飛ばされていたわ」―これは三人の妹たちの誰かが、私が怒りそうな、あるいは叱られそうなことをやったときに言ったものです。
この言葉が面白いというのは、私たち親も、実は子供と一緒に親として成長しているということを如実に示しているからです。
体罰をすべきかどうか。私はどちらでもいいと思います。要するに「やる」か「やらない」かです。「やらない」と決めたのなら、やらないこと。「やってもいい」と思っている場合にはそこに一貫性が必要です。
つまり「やる」場合、同じ程度の悪さをしたにもかかわらず、ある時は簡単に許され、ある時はひどく叱られるというようなデタラメなことをしないこと。
また、どちらか一方の親が子供を叩いたとき、もう一方の親が〝ちょっとやり過ぎだ″と思っても、その場はじっとこらえていること。うっかり、「そんなにまでしなくてもいいでしょう」と言ってしまったり、さらにはそのことが原因になって、「お前の育て方が悪いんだ」などと子供の前で口論になったりすると、その体罰はなんの効果もないどころか、かえって悪い結果をもたらします。子供の目の前で、今やった体罰について両親がやり合うのはいけません。
それは子供にとって、自分に対する教育方針と責任の所在が一貫していないことを見せつけられることであり、子供から見ると両親が頼りなく見えるのです。
しかし、〝しまった、やり過ぎた″と思うような時も実際にはあるものです。
そのような時、「ごめんね、よしよし」と、今やった体罰に親が反省した態度をすぐに示してはいけません。これをやると、その体罰自体が無意味なことになってしまい、子供は「悪くなかったのに親が間違ってやった」と思い、最悪の結果となります。親としてはつらいかも知れませんが〝当然だ″という顔をしていることが肝心です。
ここで、体罰について確認しておかなければならないことがあります。それは体罰によって物事を教える、あるいは悪い行為を中止させることができるのは子供に対する愛情に自信のある場合、すなわち「愛の強制力」を行使できる親に限る、ということです(連載第四十九回参照)。愛の希薄な親子関係では体罰は虐待と同じことになります。たとえば次にあげるような経過をとっている場合です。
一.親子の関係が友達のようになっている場合
二.子供の要求をとめどなく容認する育て方をしている場合
三.連載八十一回、八十二回で述べた、アタッチメント形成不全を発生させる七項目のどれかをやっている場合
このような親子関係で体罰を行うと、それは単なる家庭内暴力でしかなく、躾にも教育にもなりません。