admin
「然れどポテトサラダ」の巻
先日、枝豆の入ったポテトサラダというのをご馳走になった。ほう、面白いなと思いつつ新たな関心が。世には一体どれだけのポテトサラダがあるのか。
大別するなら、まずは玉ネギ、ニンジン、キュウリで作るシンプル派。魚肉ソーセージも欠かせないという人も多いだろう。
対して、ゆで卵やツナ、チーズを混ぜたり、時にはカボチャを加えたりするこってり派。
または、リンゴやミカン、レーズンで甘く仕上げるスイート派。
逆に、具は加えずクリームや牛乳で、なめらかな食感と風味を楽しむクリーミー派。
こだわり派というのがあるとすれば、カレー味にしたりニンニクを効かせたり、おからを入れて栄養価アップなんてお方も。
まさに千差万別。思いついて挙げてみただけでこんなにもある。
ちなみに、近頃自分が酒の肴に作るそれは、具を玉ネギ、ニンジンとごくシンプルにとどめ、マヨネーズも少量をつなぎ程度に。これだと味が決まらないので酢を少々。食べる時にマヨネーズをちょっとかけてひと口、ソースをかけてひと口、といった具合にイモと調味料の相性、そして酒といかに合うかを楽しむという趣向だ。醤油や粗挽きマスタードなども美味しい。
ところで、この手の話は料理好きや食いしん坊なら誰でも楽しいもので、何なら論争になるくらいがやり甲斐がある。甘くするのが我が家流とする人がいるなら、甘いのは苦手と反論が出るのもまた然り。
ただ、ご用心あれ。
ポテトサラダは本来、人それぞれに感慨のある家庭の味、おふくろの味だったりする。だから、うかつに相手の好みを否定できない、ちょっと注意が必要な食べ物でもある。
食べ物の好き嫌いは人格にも通ずともいう。ポテトサラダが原因でケンカ別れ、なんて話だけはご勘弁を。
旭川市立旭川第三小学校
旭川市東光8条8丁目にある旭川第三小学校。
241名の子供達が元気に学んでいます。地域住民が協力的で、
三小ボランティアと呼ばれるボランティア活動が活発に行われています。
毎日の様子を御紹介します。
地域のまなざしの中で
旭川第三小は、明治32年、ウシュベツ簡易教育所として設置され、東旭川下公有地の開拓とともに、113年の歴史があります。昔は学校の周辺は田園地帯でしたが、今は住宅地になっています。学校はバスの通る道路に囲まれているので、信号も多いのですが、子供達は事故もなく過ごしています。
安心して通学できるのは「三小ボランティア」のお陰と言っても過言ではありません。三小ボランティアは、現在19名からなる素晴らしい仲間です。毎朝、子供達の通学路に立って安全指導をしているのです。「この子は何時くらいに通る」とか「今朝は遅いな」とか、全てを知っていて見守っています。元気な挨拶とともに、安心安全な子供達の朝が始まります。
校庭の樹木には名前の書いたプレートが付けられています。これも三小ボランティア。校庭の樹木を調査し、全部の名前を調べ、林産試験場にプレートを作っていただき、子供と一緒に木に付けました。一口で言うと簡単そうですが、とても時間のかかる仕事です。昔遊び集会のお手伝いや、廊下に飾られている生け花、本の読み聞かせも地域のボランティア。言葉に出して言わなくても、子供達は地域の方々に見守られているということを、体で感じていることでしょう。
学力に力を入れてます
旭三小の先生達も一生懸命です。特に校内研究に力を入れています。昨年は、日本教育公務員弘済会の教育研究論文で、準特選になりました。国語を窓口として研究主題は「豊かに伝え合う子どもの育成」。「読むこと」領域における、言語活動・読書活動の充実を目指しました。そして今年度からは、算数教育で、旭川市授業力向上実践研究推進事業実践研究校になりました。研究主題は「算数の時間が待ち遠しい、算数好きの子どもの育成」。学ぶことの楽しさや意義を実感する算数的活動と言語活動の充実を目指します。全部の先生が研究授業をして頑張っています。どんな授業なのか、のぞいてみたくなります。
皆、仲良し
旭三小の子供達は、明るく元気で皆、仲良しです。年に二回開催されるフレンドリー集会は地域割りの異学年交流。縦割りグループです。6年生が企画し、ゲームを楽しみます。クラブ活動は、4年生以上は全員が入ります。ダンスクラブの発表などは、なかなかレベルの高い感じ。何事にも本当に一生懸命です。
体験活動も積極的に行われています。三味線、茶道、車イス体験。4年生では消防の出前講座もあります。実際に放水をしたり、制服を着せてもらったり、3・4年生の授業の書き初めは、体育館で行われます。皆が書き初めをしている姿は壮観です。5年生の田植え体験は、歩いて20分位の所にある元保護者の田んぼをお借りして、田植えと稲刈りを。2年か3年に一度は、ロシアの子供との交流もあります。
体育委員会主催のドッジボール大会は中休みに異学年で行われます。しっぽ取りゲームは、皆の大好きなゲーム。大いに盛り上がり楽しみます。これら全ての体験や交流を通して皆、仲良し。和気あいあい。とても家族的で、6年生は学校のお兄さんお姉さんです。
熱心な先生、温かくいつも見守ってくれる地域の方々、保護者も積極的に活動しています。伸び伸び明るい子供達の元気な声は、ますます元気になって行くに違いありません。
大学を卒業して2年目を迎えた山村先生は、2年1組の担任。御両親も先生という教育一家に生まれました。少年団野球(三小パワーズ)の指導をしています。少し前までは一世を風靡したチームです。今は人数が減ってきていますが、先生の指導で甦る予感。今は自炊をして得意料理は「鶏のたたき」だとか。子供の心を忘れない先生でいたいと話しています。
「羊をめぐる冒険」の地へ
20年ほど前、夢中になって読んだ 村上春樹の「羊をめぐる冒険」。
作品に書かれている羊博士の牧場がある
「十二滝町」にそっくりな地が美深の奥にあると言う。
『旭川の近くで支線に乗りかえ、3時間ばかり行った所にふもとの町があった。』
こう書かれた場所が美深町ならば そこから20キロ東に向かった、十六の滝がある
住民70人の仁宇布が「十二滝町」かもしれない。
秋の始まりの頃、その地を訪れてみました。それも最悪なお天気の日に。
村上春樹ならば、「やれやれ」って書くかな。
宿泊したのは、毎年村上春樹作品の朗読会が行われている「ファームイン・トント」。
農林漁家民宿おかあさん100選に選ばれた、気さくで楽しい奥様がきりもりしてる。
▲廃線になった美幸線のレールを使った往復40分のトロッコの旅が楽しめる「トロッコ王国」
伺ったその日は、美深町民大運動会の前日、今年で第58回目の歴史ある運動会。昨年の大会を制した仁宇布地区では、この日も運動会に向けて練習を積んでいたようで、結果はなんと今年も優勝。美深町仁宇布、土地も人もやっぱり何かある。
「ファームイン・トント」
北海道中川郡美深町仁宇布660
TEL/01656-2-3939
http://matsuyama-farm.com/
育児のための衣服の条件③
赤ちゃんは事故の危険に常にさらされている
前回まで二回にわたって赤ちゃんの衣服の条件を述べてきましたが、それらは大人の場合にも通用する、いわば常識的な事柄でした。今回は赤ちゃんに起こるいろいろな事故のうち、特に重要な「ヤケド」(熱傷)と衣服の関係についてお話いたします。
赤ちゃんはハイハイするようになるまでは自分の身体を移動させることができないので、危険が迫っていても自力でそれから遠ざかることはできません。ハイハイができるようになり、さらに歩けるようになると、今度は自分の興味のあるところへは、途中に何があろうとまっしぐらに行こうとします。
いずれにしても、赤ちゃんは事故の危険に常にさらされています。私たちはこんな赤ちゃんを事故から守ってやらなくてはならない義務を負っているのです(法律の上でも)。
カゼをひかせるのは親の責任だなどと言う人が医者の中にまでいますが、これは無茶な話です。人工衛星に乗って宇宙で生活するか、カプセルに入って外界からまったく隔絶された生活でもしないかぎり、この地上で「カゼをひかせるな」とは「息もするな、メシも食うな」と言うのに等しいことなので、こんなことまで親の責任だと思う必要はありません。
素早く脱がせられること
しかし一方、いかに親のほうに味方して考えても親の責任だと言わざるをえない事故も少しはあります。その代表的なものがヤケドです。私達は日常、ヤケドには特に気を付けていなければなりません。しかし不運にもヤケドをさせてしまったら、次のようにしてください。
一.素早く着ているものを脱がせる こと。
二.それができないときは、できるだ け早く多量の水をかけること。た だし塩酸や灯油など、薬品を浴びたときは水をかけ
てもだめ。脱がせるしかない。
三.火やお湯にしろ、薬品による場合 にしろ、ヤケドの程度がひどくて 服を脱がせたら水ぶくれの皮が一 緒にはがれるよ
うなときは、着て いる物をハサミで切って、できるだ け水ぶくれを壊さないようにして 子どもの肌から着ている物を
取り 去ること。
四.以上の処置をやったら、ただちに 皮膚科か、形成外科か、外科の病 院へ連れて行くこと。もちろん、か かりつけの
小児科でもいい。
赤ちゃんの衣服を買うときは、ヤケドのことを常に思い浮かべ、とっさの場合に素早く脱がせることができるかどうかをまず考えることです。
色や柄がどんなに気に入っても、デザインがいかに素晴らしくても、脱がせるのに手間取る衣服は絶対に着せてはいけません。これが赤ちゃんの衣服を選ぶときの最優先の条件です。
また浴衣などはすぐには燃えないものであることを必ず確認してから買うこと。化学繊維の浴衣を着て花火をして遊んでいるうちに、その火が浴衣に燃え移って、アッという間に全身火だるまになった、という例があります。
着物を再生させたステキ空間で、アナタなら何をする?
日本伝統文化の着物。でも最近は着る機会も、すっかり減ってしまいました。そんな着物を大切にリメイクして、再生させているお店に出会いました。着物に対する愛情を感じるリサイクルブティック茶房・葵。その魅力はリサイクルやお食事だけでなく、空間を生かして、バッグ作りやヨーガの教室など様々な展開をしています。
色鮮やかな帯をリメイクした手作りの暖簾。その暖簾をくぐると、不思議な世界が待っていました。
玄関は、留袖を利用したカーテンに、打掛をリメイクした洋服が飾られ、入った瞬間から「うわーぁ」とオドロキ。「打掛はホテルの貸衣装だったもの。多くの人が佳き日に袖を通し、慶びが込められています。だから店の看板代わりに飾っているの」と、オーナーの澤口三枝子さん。
店内の壁には着物をリメイクした洋服が並び、和風雑貨など手作り商品が色々。テーブルには帯で作ったクロスがかけられ、独特の雰囲気です。きっと初めての方は、あちこち気になって仕方ないはず。私も、キョロキョロしてしまいました。
実は、もっと驚いたのが、この後。なんと、地下にも部屋があり、2階3階と続く不思議空間。テーブルの部屋や和室など様々な部屋があり、ちょっぴり迷路のよう。この中のどの部屋でお食事してもOK。メニューも食事からパフェ、あんみつと、かなりの充実ぶりです。
この沢山の部屋は、バッグy作り教室やヨーガ教室など、様々な使われ方もしています。少人数で使える空間を探している人が意外に多く、「ぜひ使わせて欲しい」と頼まれたのがきっかけだとか。
ちょうど取材日はヨーガの練習中。「少人数でゆっくりやりたい」と数人の仲間で、日本ヨーガ学会・旭川ヨーガ協会の宮本淳子先生を招いて開いていました。
「ヨーガは、人がいかに心穏やかに生きるかのテクニック。心を開放して繰り返し学ぶことで、心をコントロールしリラックスできます。心が穏やかに安定すると、誰でも愛のある言葉が出てくるようになるんですよ」と優しく語る先生は、まさに愛の言葉を発しながら、安らぎの世界へ導きます。私も先生の声を聞いているだけで、癒されていきました。ヨーガは不定期で開催。ぜひ興味のある方はお問い合わせ下さいね。
ゆっくりとお茶会を開いたり、勉強会に使ったり、アナタもこの魅力的な空間を使ってみませんか。
取材協力 リサイクルブティック茶房 葵
旭川市3条通り5丁目右5号
TEL0166-74-5442
プラタナス大賞 『前田先生』 齋藤 良子
中学二年の担任の先生の名前は前田先生と言い、眼鏡の奥の目が静かだった。数学担当だったが私は大の数学嫌い、小学校の分数の計算から迷路に入り、その後の数学はどうやっても理解出来なかった。ある時、すべての教科のテストを並べて、先生は「何で数学だけ出来ないんだ}と職員室で叱られたが、分数で躓いたとは言えなかった。
その前田先生から多くの愛情を貰うことになる。
父を小さい時に亡くし、母は内職の和裁や、近所の農家へ手伝いに行き家計を支えていた。
自分の体を使い切って働く母が倒れねばよいといつもはらはらしていた。
結核療養所に入院している姉と、二つ違いの兄と私の教育費等々、母にとって捻出するのは楽ではなかった。私は、様々な理由をつけてPTA会費などの提出を遅らせて、兄と重ならないように母の懐具合を見ながら貰ったり、家庭科の教材は、古い衣類をほどいてアイロンをかけて持っていった。
そんな私に前田先生は「お前、これ使え」とさりげなく廊下で包みを渡した。それは新しい英語の辞書や、国語の辞書だったりした。
さまざまな会費の納入が遅れても、私が肩身の狭い思いをしないように取りはからってくれた。そして中学三年の修学旅行が近づき、私は初めから行けないと諦めていたある日、職員室へ呼ばれて「お前、修学旅行へ行ってこい。金はもう払い込んである」と言われた。思いがけないのと、嬉しさと、申し訳なさとで胸が熱くなった。
三年生になりすでに担任を外れていたのに、いつも何処かで見ていてくれた。
やがて卒業式が近づく頃、母は私の知らない間に雑巾を一〇〇枚ほど縫い上げていた。
そして卒業式当日、私に風呂敷に包んで渡しながら「お前が先生に沢山お世話になったのに何一つお礼が出来ていない。いつかお前がお返ししないといけないよ。今、母さんが出来ることはこんな事しかないが、先生に渡しておくれ」と包みを渡された。
私は正直、渡すのは恥ずかしいと思ったが、母の気持ちを思えば口には出せなかった。卒業式の後廊下で、母の言った通りの言葉を伝えて包みを差し出した。先生はとても厳しい顔になり「なんだ、こんなもの持ってきて」と私の手を払った。包みがほどけて、雑巾の束が廊下に散らばった。先生ははっとして「済まん、悪かった」と言い、二人で泣きながら雑巾を拾い集めた。先生は私を抱きしめて何度も「悪かった、ごめんよ」と言って職員室へ包みを持っていった。
遙か昔の事ながら、いつでも私の心を熱くし、頂いた愛情を私も人に配らなければいけないと心に誓って生きてきた。
生涯の灯りとして私の心に消えることのない明かりを点してくれた先生であった。
準大賞 『老春』 ペンネーム/大林 慶
今朝は少し赤い口紅にしようかしら。服はどちらにしようかな。もうすぐ通園バスがやって来る。主人を亡くして三年。月日を重ねる内に、季節の移ろいに無関心になり、服装や化粧にも無頓着になっていた私は、少しお洒落をしてバスを見送るのが朝の日課になった。そして、その事が私の老いの日々を変えてくれた。
三月末、隣に引っ越してきた家族が挨拶にみえた。五歳の一人娘の名前は美紀ちゃん。通園バスがここまで回って来る幼稚園に通わせることに決めたという。
一週間後、回覧板を届けようと外へ出た。玄関前に母子が立っていて、可愛い園児服に黄色い帽子、赤いバッグをクロスに掛けた美紀ちゃんの姿が目に飛び込んできた。
「きょうは入園式なのね。美紀ちゃん、おめでとう」
と掛けた私の言葉に
「おばあちゃん……ありがと」
と、美紀ちゃんの小さな声が返ってきた。間もなく、バスが前の道路に停まった。開いたドアから、子ども達の賑やかな声が響いてくる。しかし、母親の手を握った美紀ちゃんが不安の中にいおる事は、私には容易に想像できた。「お母さんも、すぐ行くからね」と言う言葉に納得し、係の女性に促されてバスに乗った。
少しの躊躇もあったが、この日から朝の通園バスを見送りたいと思った。日が経つにつれ、美紀ちゃんは幼稚園が楽しくてたまらないらしく、見送りの母親を急かせるようにしてバスを待つようになった。私の姿を見て、手を振ってくれる子どもの数も増えてきた。
雨の日、泣いている子に係の方が私を指さして何やら話しかけた。その子は、ニコッと笑って小さく手を振った。翌朝、
「きのう泣いていた香ちゃんがネ、おばあちゃんのこと話してたョ」
と、美紀ちゃんが明るく話してくれた。
ある日の午後、買い物を終えてバス停で待っていると、遠足の帰りらしい幼稚園児の列が近づいてきた。いつも見送る子ども達と同じ園児服。その中の一人が私を見つけて、
「おばあちゃん、そのバッグかわいいネ」
といった言葉に、何故か熱いものが込み上げてきて、撫でた黄色い帽子が滲んで見えた。
歳とともに失っていくものが多い。そして、東京にいる孫達には、年に一、二回しか会えない。そんな私には、通園バスの子ども達が新しい孫達。
きょうは、道まで出て見送ることにした。バスが信号で右に曲がった空をふと見上げると、浮かんだ一つの雲がユーモア好きだった主人の顔に見えて、
「たくさんの孫達ができて、嬉しそうじゃないか。青春から半世紀、今は『老春』だな」と、冷やかし半分に言ったような気がした。その上の青空を、白いジェット雲を引いた一番機が、東京に向けて上昇していった。
三浦綾子記念文学館特別賞 『父の想い、私の想い』 高市佳子
久しぶりに風邪をこじらせた。
体が熱く、熱もある。
ふと、昔食べた「たまっこねり」「はなっこねり」を思い出した。かたくり粉を水にといてお湯を注いだらはなっこねり。かたくり粉に直接お湯を注いだらたまっこねりになる。小さい頃風邪をひくと決まって父がこれを作ってくれた。風邪をひき布団で寝ていると、仕事から帰ってきた父が部屋をのぞき
「風邪かぁ~。どっちにする?」と、聞いてくれた。
「はなっこねりにする…」と言うと、
「おっ!!」とひと言言い、お湯を沸かしたやかんとかたくり粉を入れたおわんを持ってきて、寝ている私の目の前で作ってくれる。
かたくり粉の入ったおわんにゆっくりお湯を注ぐ。父の見極めでピタッとお湯を注ぐのをやめる。その瞬間「はっ!!」とかけ声をかけておわんを逆さまにして元に戻す。はなっこねりがおわんから落ちる事はない。手品の様だと当時は思っていた。又、父のかけ声の声の大きさに驚きいつも笑ってしまう。やるとわかっていても同じ場面で笑ってしまう。
「今日のはなっこねりは大したいいぞ」と少しだけお砂糖をかけて渡してくれる。父の作るはねっこねりは美味しい風邪薬だ。父は食べ終わるまでずっと側にいてくれる。そして「明日にはよくなっているからな」と言って部屋を出ていく。
はなっこねりは父が子供の頃貧しく、米の代わりに食べたものだと聞いた事がある。砂糖は当時、大変貴重なものだったし、父が作るはなっこねりにはほんの少ししか砂糖はかけない。食べ終わるまで見ているのも、当時の自分の姿と重ね合わせていたのかもしれない。
人は時として、何かを伝える時に遠まわしに伝える事がある。言葉や行動、しぐさに隠された思い、子供の頃には気づかずにいたが、今、この歳になりたくさんの想いに気づかされる。滅多にひかない風邪をひいた事。はねっこねりが食べたいと思った事。風邪をひいた事は偶然なのか…。しかしそのおかげで、父の想いにもたどりついた。風邪をひいた事も必然だったと受けとめる事ができる。
その父は昨年旅立った。もう父の作るはなっこねりを口にする事は二度とない。
目をつぶると、父がはなっこねりを作る情景がはっきり浮かぶ。父の表情、箸を持つごつい手、やかんをかたむけるしぐさ、私を見つめる優しい顔、笑った顔に刻まれるしわ、父への想いが涙になってあふれでる。
忘れる事のできない味。忘れたくない父の全部。大好きな父の声が聞けない事も、会えない事もとても寂しいが、人が大好きな父の想いを受け取り、忘れる事なく父の様に明るく歳を重ねていきたいと思う。面倒がらずに、人のために自分ができる事を尽くしてきたそんな父の様に、今度は私がどなたかにそうできたらいいと思う。
父の大好きなひまわりの花が大きなつぼみをつけている。
入選 『青空』 小笠原 章仁
その頃は、心の中にいつも鉛色の雲が垂れ込めていた。
うつ病と診断された2年前から何もする気が起きなかったのに、どうしてこんなことを言いだしたのだろう。
「今度のびえいヘルシーマラソン、親子ペアに出るぞ」
レース当日、号砲とともに飛び出す小学5年の息子。ついて行くには全力で走らなければならなかった。でも3km地点から歩いてしまい、息子の背中はみるみるうちに遠ざかってしまった。ワンエイツ(5.274km)という距離がとてつもなく長く感じた。
やっとの思いで競技場に入ると、4コーナーのあたりにぽつんとたたずむ息子の姿が見えた。
「ゴメンゴメン、遅れちまった」
と軽く言いながら駆け寄る僕。無言のまま刺すような視線を向けていた息子は、僕の手をつかむと全力で走り出した。僕は転ばないようについていくのが精一杯だった。
親子ペアは2人一緒にゴールしなければならない。全力で走った彼だが、そのままゴールするわけにいかなかった。後続のランナーに次々と抜かれている間、彼はどんな思いでいたのだろう。自分の努力を台無しにした情けない父親に対する怒りの気持ちが、強く握ったその手から伝わってきた。
やっとゴールをして苦しく息を吐いている僕の口からは思いがけない宣言が飛び出した。
「来年は絶対お前についていくからな」
息子の怒りが、このままダメ親父ではいられないという意地に火をつけたようだ。
それから僕はランナーになった。徐々に走れる距離は長くなった。スピードも増してきた。近郊の大会にも参加するようになり、記録も伸びていった。
1年が経過して、びえいヘルシーマラソンの日がやってきた。
号砲とともに息子が飛び出し、僕は後ろについていく。それは昨年と同じだった。でも昨年の彼よりもスピードは速かった。彼についていくには今年も全力疾走が必要だった。
今年も彼についていくのは3kmまでが限界だった。少しずつ彼から遅れ始めた。
彼もその気配を察したのだろう。不安そうな表情で後ろを振り向いた。
「俺にかまうな。絶対についていくから、全力で走れ!」
昨年のように簡単に諦めるわけにはいかない。父としての存在意義がここにかかっているのだ。必死で彼の背中を追った。
諦めれば足が止まってしまうことは間違いない。それだけは絶対にいやだ。徐々に小さくなる彼の背中を追いかけながら、意地だけが足を動かしていた。
競技場に入るとき、彼は100m前を走っていた。4コーナー地点に到着して振り返る彼に、僕は大きく手を振った。まだしっかり走っていることを精一杯アピールしたのだ。
左手を伸ばすと彼は右手でしっかりとつかみ全力疾走をする。僕も彼に合わせてラストスパートをする。手をつないで並んだままゴールラインを越えた。
「ごめん、今年もついて行けなかった」
苦しい呼吸の中で彼に謝った。
「いいよ。お父さん、頑張ったよ。すごかったよ」
彼の笑顔を見て、心の中に青空が広がった。
入選 『一番星』 村山恵美子
残暑厳しい9月も、日が落ちるとめっきり涼しい。職場を出た私はカーデガンを羽織った。ぐんと高くなり澄んだ夕暮れの空に星を見つけた。
「あ、一番星だ。ほら見てあそこ」まだ小さかったひとり息子の翔太が一番星を見つけて私に教えてくれたことを思い出した。得意そうな顔が可愛かった。
その息子から、「会わせたい人がいるんだ。次の日曜連れてくるから」と言われたのは3日前のことだ。彼女は職場の同僚で同い年なのだという。
変な女だったらどうしよう。いやあの子に限ってそんなはずはない。でも、悪女とわかっていながらもずるずると惹かれてしまうのが男というもの。どんな人だろう。妙に早く目が覚めてしまった日曜日、なにか落ち着かない。まるで自分が見合いでもするかのようだ。
お昼は、出前の握り寿司でも取ろうかと思ったがやめた。人任せなんて今日はダメだ、気合いを入れて自分で作ろう。ちらし寿司とポテトサラダ、それと澄まし汁。何度も味を確かめて真剣に作った。新しいテーブルクロスを敷き、バラの花を飾り、目障りな物は全部押し入れに放り込んだ。
「なんだよこれ。こんなに空っぽにしなくて普通でいいよ」
起きてきた翔太が不機嫌な顔で言う。普通でいいわけがない。家が汚い飯がマズいで嫌われたりしたら洒落にならないではないか。と言いたい気持ちをぐいっと抑える。笑顔だ。今日はにこやかにいい母に徹すると決めたのだ。
現れた女性は悔しいほど可愛らしい人だった。小柄で長い髪、ひらひらしたクリーム色のブラウスがとても似合っていた。まるで女学生のようによく笑い「おいしいです」と私の手料理を食べてくれる。女の子がいると家の中はこんなに明るいものなのかと驚いた。そしてでれでれと、私の前では見せたことのない笑顔を見せる翔太がなんだか宇宙人に見える。
「駅まで送るよ」夕方、彼女を送ると翔太も一緒に家を出た。小雨の中を二つの傘が並んで歩く。翔太がなにか面白いことでも言ったのか、彼女が身体をよじってくっくっと笑っている。幸せそう。足元を濡らす秋の雨も、今の二人にはなんにも冷たくはないのだろうな。とその後姿を玄関先で見つめた。
離婚したとき翔太は5歳だった。一番星を指差したあの日の少年は32歳になり共に歩む人を見つけた。ちゃんと育ててみせると歯を食いしばって突っ走ってきた私の役目は、終わるらしい。なんだ、もう終わるのか。ああつまらない。
家に入った私は憮然と缶ビールを取り出しプシュッと、乱暴に開けていた。