子育て注意点

育児のための衣服の条件④

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赤ちゃんだってオムツは嫌いだ

オムツは衣服ではないのですが今回はオムツについてお話します。
オムツ、あんな物、私たちなら一分一秒も着けてはいたくないでしょう。そのとおり。赤ちゃんもそう思っているのです。オムツはまったく親の一方的な都合で当てているものです。私たちは、赤ちゃんにお願いをしてオムツを当ててもらっているのだということを忘れてはいけません。
だからオムツはちょっとでも濡れたら、すぐ取り替えなければならないのです。そのようにしていると、赤ちゃんも濡れたオムツの気持ちの悪さを早く覚え、結果としてウンチやオシッコを早く教えるようになります。

下痢をしている時は  特に赤ちゃんが下痢をしている時は、注意を怠らず、下痢便が出たらすぐに取り替えてやることが肝要です。この場合は、単にオムツが濡れて気持ちが悪いからというばかりでなく、下痢便のせいでお尻がタダレることがよくあるからです。さらにそのタダレはオムツカブレの原因になります。
オムツを取り替える時の手順は、汚れたオムツを外してお尻をきれいにぬぐった後、洗面器とかタライなどにお湯をとって、お尻を浸し、よくゆすいでから次のオムツを当てる、これがコツです。もちろんシャワーでもいいのです。こうしないと下痢便をお尻から完全に取り去ることはできません。この時、石けんを使う必要はありません。ゆすぐだけでいいのです。  また、単に濡れたタオルで拭くだけにしている人がいますが、これはやらないよりはましですが、ほとんど効果は期待できません。だから下痢便が出たらそのつど必ずお尻を洗わなくてはいけないのです。仮に少しタダレかかっていても、便の出るたびに洗っていればすぐ治ります。

カブレとタダレ  オムツカブレはタダレがもとで起きるのが普通なので、タダレを起こさないようにすればカブレも起きません。それでもオムツカブレを起こしたら、ばい菌がついたか、菌類(ほとんどの場合カンジダ)がついたかのどちらかなので、皮膚科か小児科へ行きましょう。素人判断で間違った薬をぬると悪化させることがあります。
また、タダレの場合もカブレの場合も、ベビー用のパウダーは無用です。タダレやカブレのときは状態を悪化させるし、正常なときでもパウダーのついた身体が汗やオシッコで濡れると、パウダーは汗やオシッコを吸収して小さなかたまりになるか粘土状になります。そうすると結果的に赤ちゃんは汗やオシッコのエキスを身につけていることになるからです。
その上ベビー用のパウダーにはさらに心配なことがあります。それは母親が赤ちゃんの衣服やオムツを取り替えるときなど、パウダーの入れ物にふたをするのをうっかり忘れて赤ちゃんの頭や手のそばに置いたとき、赤ちゃんが手をばたばたさせてその入れ物をひっくり返し、パウダーが赤ちゃんの顔に多量にふりかかることがあります。このとき赤ちゃんがパウダーを吸い込んで、それが気管に入ることがよくあるのです。これをやったら大変です。この気道内異物は死亡率が非常に高いのです。

 

育児のための衣服の条件③

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赤ちゃんは事故の危険に常にさらされている

前回まで二回にわたって赤ちゃんの衣服の条件を述べてきましたが、それらは大人の場合にも通用する、いわば常識的な事柄でした。今回は赤ちゃんに起こるいろいろな事故のうち、特に重要な「ヤケド」(熱傷)と衣服の関係についてお話いたします。
赤ちゃんはハイハイするようになるまでは自分の身体を移動させることができないので、危険が迫っていても自力でそれから遠ざかることはできません。ハイハイができるようになり、さらに歩けるようになると、今度は自分の興味のあるところへは、途中に何があろうとまっしぐらに行こうとします。

いずれにしても、赤ちゃんは事故の危険に常にさらされています。私たちはこんな赤ちゃんを事故から守ってやらなくてはならない義務を負っているのです(法律の上でも)。

カゼをひかせるのは親の責任だなどと言う人が医者の中にまでいますが、これは無茶な話です。人工衛星に乗って宇宙で生活するか、カプセルに入って外界からまったく隔絶された生活でもしないかぎり、この地上で「カゼをひかせるな」とは「息もするな、メシも食うな」と言うのに等しいことなので、こんなことまで親の責任だと思う必要はありません。

 

素早く脱がせられること

しかし一方、いかに親のほうに味方して考えても親の責任だと言わざるをえない事故も少しはあります。その代表的なものがヤケドです。私達は日常、ヤケドには特に気を付けていなければなりません。しかし不運にもヤケドをさせてしまったら、次のようにしてください。

一.素早く着ているものを脱がせる  こと。

二.それができないときは、できるだ け早く多量の水をかけること。た だし塩酸や灯油など、薬品を浴びたときは水をかけ
てもだめ。脱がせるしかない。

三.火やお湯にしろ、薬品による場合 にしろ、ヤケドの程度がひどくて 服を脱がせたら水ぶくれの皮が一 緒にはがれるよ
うなときは、着て いる物をハサミで切って、できるだ け水ぶくれを壊さないようにして 子どもの肌から着ている物を
取り 去ること。

四.以上の処置をやったら、ただちに 皮膚科か、形成外科か、外科の病 院へ連れて行くこと。もちろん、か かりつけの
小児科でもいい。

 

赤ちゃんの衣服を買うときは、ヤケドのことを常に思い浮かべ、とっさの場合に素早く脱がせることができるかどうかをまず考えることです。

色や柄がどんなに気に入っても、デザインがいかに素晴らしくても、脱がせるのに手間取る衣服は絶対に着せてはいけません。これが赤ちゃんの衣服を選ぶときの最優先の条件です。
また浴衣などはすぐには燃えないものであることを必ず確認してから買うこと。化学繊維の浴衣を着て花火をして遊んでいるうちに、その火が浴衣に燃え移って、アッという間に全身火だるまになった、という例があります。

育児のための衣服の条件②

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手足を自由に動かせる衣服

赤ちゃんは目を覚ましているときはもちろんのこと、眠っているときでも盛んに身体を動かしています。一歳を過ぎると寝返りを何回もやるので、とうとうふとんの外へ出てしまい、ときには「どこへ行ってしまったんだろう」と探さなければならないことさえあります。
こういうのは身体が丈夫な証拠です。
さらに大きくなってからでも、子供は寝相が悪くて当たり前なので、布団の外へ飛び出しても腹が出て冷えたりしないようにする工夫が必要です。

赤ちゃんは裸にされると、とても喜んで手足をバタバタさせます。これは衣服を脱がされたことによって身体が自由になったからです。したがって赤ちゃんは衣服を着ている時でも、裸の時と同じように手足を自由に動かせるようにしてやらなくてはなりません。もちろん夜寝ている時も同じです。

 

自然な肢位を妨げないように

眠っている赤ちゃんを見たことのある人ならば誰でも知っていることですが、赤ちゃんが眠っている時の姿勢はバンザイをしたように両腕を上げ、掛け布団の外に両手を出しています。また脚は、お相撲さんがしこ四股を踏んで身体を沈みこませた時のように股を開いたかっこうになっています。このような手足の位置が赤ちゃんの自然な肢位なので、赤ちゃんが歩き始めるまでは、この体位が自由にとれるような衣服を着せることが大切です。細い袋のような衣服は赤ちゃんの股がよく開かないのでいけません。

このことは私たちがホテルのあの封筒のようなシングルベッドで寝るときや、寝袋(スリーピングバッグ)で寝るときの、きゅうくつなのを思い浮かべると、すぐ理解できるでしょう。

赤ちゃんの股はよく開くように日常生活で常にトレーニングしなければなりません。だから、お母さんが座っている時に赤ちゃんを抱っこする場合は、必ずお母さんの膝をまたぐように股を開いた形で抱くようにしましょう。

同様に、オンブをする時も赤ちゃんの両脚はそろえないで、赤ちゃんの膝がお母さんの脇腹へくるような形で背負うようにしてください。こうすることで赤ちゃんの運動能力の発達を助長するし、股関節脱臼の予防にもなるのです。オンブについては後であらためてお話します。

 

敷き布団の硬さは?

これにともなうこととして、布団の硬さの問題があります。赤ちゃんの敷き布団は身体が沈み込むような、やわらかいものはいけません。やわらか過ぎると、
・寝返りがしづらいので眠っている間    の運動ができない
・何かのはずみでうつぶせになった時、 寝返りができないと窒息する恐れが ある
・あお向けに寝ている時身体が沈み込     むと、その結果として膝が前へ出る ので自然な体位を妨げ、股関節脱臼 の発生を助長する

以上の点から、やわらかすぎる敷き布団はよくないのです。大人ならば背中が痛くて眠れないという程度の硬さがいいのです。

育児のための衣服の条件①

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赤ちゃんが生まれると最初に与えられるものは衣服です。それにしても衣、食、住というこの順番は面白いですね。食衣住でも、住食衣でも、衣住食でもないのです。

 赤ちゃんにとって、まず必要なものは衣であり、次が食つまりお乳、住は最後でいいのです。このことは私たちおとなにも当てはまるので、さらに興味深いものがあります。 

 ここで思い出されるのが「衣食足りて礼節を知る」という言葉です。その意味は、民の生活が安定すれば道徳心が高まって礼儀を知るようになる、というものですが、食べ物や衣服があり余っている今の日本には当てはまっていません。身障者用の駐車場に平気で駐車する若者や、ファミレスなどで帽子を脱がない中高年があふれています。

 そして面白いことに、日本のこの状況はモノとカネだけでは人格を涵養することはできないということを明確に示しています。さらに、人が礼節を知るための基礎となるものは、インプリンティング(連載第三十四回)とアタッチメント(同三十五回)、すなわち愛情豊かな母子関係と良好な愛着行動によってのみ礼節は身についていくのであって、「衣食と礼節とは無関係である」ということを証明しているのです。このことは、日本に観光に来てホテルのテレビまで盗んで帰るどこかの国の富裕層を見ると、さらにはっきりしますね。「お里が知れる」とはまさにこのことです。

 さて、赤ちゃんの衣服を選ぶに当たって私たちが念頭に置かなくてはならないこと、それはそんなに難しいことではありません。私たちが赤ちゃんになったつもりで考えればいいのです。私たちおとなにとって気持ちのいい衣服は、赤ちゃんにとっても気持ちがいいし、おとなが気持悪いものは赤ちゃんにとっても気持ちが悪いのです。

 大切なことは、赤ちゃんから子供まで、衣服については機能の良さにだけ重点を置くことです。色や柄にとらわれてはいけません。色や柄がどんなに気に入っても、子供にとって不便な衣服を着せてはいけません。子供の正常な発育を妨げ、ときには事故や病気の原因になるからです。

寒くないこと、暑くないこと
 衣服とは、もともと保温のために着るものなのですが、最近、薄着に過ぎる場合がわりと多くみられます。五ヶ月ぐらいまでの乳児に多いのですが、お乳はよく飲むのだけれど眠らない、泣いてばかりいる、という相談を受けることがあります。この中には薄着のために寒がっている場合があるので、もう一枚着せてみる、あるいは寝せる時に掛けるものを厚いものに換えるなどして様子を見るようにしてください。
 そして肌着ですが、肌着はどんなのがいいかというと、
・汗をよく吸収すること
・ある程度の伸びちぢみすること
・着たり脱いだりするときパチパチと静電気が起きないこと
・通気性がいいこと
 この四点が大切です。やはり木綿で作ってあるものが一番です。

 なお、新品の肌着は赤ちゃんに着せる前に必ず一回洗濯をしてから使うこと。理由はほんの少し付着している機械油でかぶれることがあるからです。

発達障害母

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女性は出産したら、その時から「母」になったとふつう思われていますが、実はそうではありません。子を産んだだけではまだ母になっていないのです。

女性の脳(心)には母になるためのすべてのシステム(仕組み)が生まれながらに備わっていますが、それを起動するスイッチが入らないとそのシステムは作動しません。すなわち母性愛が発生してこないのです。

システムの細かい部分を起動するスイッチは無数に用意されていて、妊娠中からずっと、その時期その時期で必要なシステムに毎日、毎時、毎分、毎秒、スイッチが入り、その都度母性愛の質が広く深くなっていきます。

スイッチが入っていく状況は出産直後からだんだん回数が多くなり、赤ちゃんの発達につれてさらに増えていきます。一番多い時期は赤ちゃんの生後六週から六ヶ月まで、すなわちインプリンティングの時期。次が三歳までのアタッチメントの時期です。

もうおわかりでしょう。スイッチを入れるのは自分の赤ちゃんなのです。すなわち赤ちゃんが自分を生んでくれた女性を母にするのです(連載第三十四回参照)。だから育児の途中で母と子が離ればなれになって育児に空白が生ずると、それはもちろん赤ちゃんの発達に障害となりますが(連載第五十九回参照)、それだけではなく、母親もその空白の間に赤ちゃんから発せられた母になるためのいくつかのスイッチが入らないために、母になりきらない不完全な母、いわば発達障害母になるおそれがあるのです。

先月号で子供を託児所や保育所に預けるのは「母と子の人生の一部を空白にする」ことだと申しました。子供についてはわかるけれども、なぜ母の人生まで空白になるのか疑問に思われた読者もおられると思いますが、理由はこういうことなのです。

しかしさまざまな事情から、子供を保育所にあずけなければならない場合ももちろんあります。その時、特に子供が三歳未満の場合は最も大事な時期なので、厳重な注意が必要です。母親は子供から愛着対象だと認識されているかどうか(本当に親だと思われているか)を、毎回点検しなければなりません。
この時の注意点は、夕方に子供を受け取りに行って再会した時に、子供が嬉しそうな顔をするかどうかをよく観察することです。明らかに嬉しい表情であれば、あまり心配はないと思っていいのですが、そうでない時、たとえば表情を変えないとか、親を無視する、視線を合わせない、などの態度が出現した場合には、家に帰ったらまず何よりも先にしっかり抱っこをして、子供の気が済むまで遊んでやらなければなりません。その日の母子関係の空白を挽回しなければならないからです。

ただしこの時、いくら心の中で思っていても「お母さんが悪いの、ごめんね」とは絶対に言ってはいけません。それは「私はお前に悪いことをしている」と言っているのと同じだからです。「それならなぜ止めないんだ」ということになるでしょう。

いずれにしてもこの失われた時間の母子関係の空白をうまく挽回できるかどうかは、「子供からの発信」に対して母親がどれぐらい敏感に反応できるか、つまり母親が赤ちゃんと同時進行して発達しているか、すなわち母になりきっているか、にかかっています。

育児は労働ではありません

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「育児をとるか、仕事をとるか」―
これは私たちが日常よく聞く問題です。しかしこの設問に答えはありません。なぜなら、設問そのものが間違っているからです。
日本がまだ高度経済成長に入る前、嫁入り道具で三種の神器といわれたものがありました。電気洗濯機、白黒テレビ、電気冷蔵庫がそれです(昭和三十年前後)。これらをそろえてお嫁に行くのは、当時ではよほどのお金持ちの娘さんでなければできないことで、ふつうの家庭の主婦は炊事、洗濯、掃除などの家事全般を、赤ちゃんを背負ってやっていたのです。

途中で赤ちゃんのおなかがすけば、仕事を中断してお乳を与え、オムツがぬれればそれを取り替えなければなりませんでした。家庭用電気冷蔵庫はまだ普及していなかったので、生物を家に多量に貯蔵しておくことはできませんでした。だからその日か、せいぜい翌日に食べるくらいの量を買いに、魚屋や八百屋へ赤ちゃんを背負って行ったものです。要するにこの時代までは主婦にとって育児は家事の一部だったのです。そして、祖父母もまだ育児に参加していました。

高度経済成長が始まり生活が豊かになっていくにつれて、三種の神器も高級品ではなくなってしまい、どこの家庭でも買えるようになりました。さらに電気炊飯器を始めとして、いろいろと便利な家庭用電化製品が出てきました。これらのおかげで主婦の家事労働量はうんと少なくなり、赤ちゃんを背負ってする仕事はほとんどなくなってしまいました。

また高度経済成長は、核家族を生み出す一方で、女性の労働力を必要としていました。主婦にも時間の余裕ができ、仕事を持とうと思えば持てる時代になった時から、育児は主婦にとって家事の一部ではなく、しなければならない仕事の一つ、すなわち育児労働だと考えられるようになってしまったのです。

労働ならばお金で代わりをさせることができます。育児が労働だと誤解されるようになってから、いたる所に託児所や保育所ができ始めました。と同時に、「育児をとるか、仕事をとるか」という決断を女性(夫婦)は、迫られるようになりました。育児と仕事とはもともと二者択一することのできない異質のものなのに、経済的側面からだけで育児と仕事とを秤にかけるようになったのです。その結果「育児か、仕事か」という悩みが発生しました。
しかし育児は労働ではありません。育児とは母親にとっても自分の人生の一部なのです。人生の一部を人に代ってもらうことはできません。だから「育児をとるか、仕事をとるか」というのは無理難題で、答えはないのです。

子供を託児所や保育所にあずけるということは育児の一部を他人に委託するのではなくて、育児の一部を犠牲にする、すなわち親と子の人生の一部を空白にすることです。このことはとても重要なことなので、しっかりと理解していただきたいのです。

つづく

病識と予防注射

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今年はだらだらとインフルエンザの流行が続きましたが皆様いかがですか。それと、また新しいインフルエンザが発生しましたね。

さて、子供は三歳を過ぎると、病気の時「自分が今苦しいのは病気になったからだ」と理解できるようになります。これを「病識がある」と表現します。自分が病気だということを本人が知っている、という意味です。喘息の発作の時などは「苦しいのは病気のせいで、点滴すると楽になる。だから針を刺されて痛くても我慢しよう」と考え、自ら「点滴をしてほしい」と訴えることさえあります。

このような病識のある子供を予防注射で病院に連れて行く時は、病気にならないための注射を受けに行くのだと、しっかり言い聞かせなければなりません。本人は注射などされるはずはないと思っているからです。
ところが、このことを言えない母親が非常に多いのです。子供に遠慮し、泣かれたり嫌がられたりするのが怖いからです。ここで、何も知らず病院に来て予防注射をされてしまうまでの、子供の心の動きを見てみましょう。

ボクは病気でもないのに、病院に連れて来られた。お母さんは、当然だという顔をしてボクの手を引いて診察室に入った。先生がいつものように診察して「はい、よろしい」と言うと、看護師さんが、やおら注射器を持ってきて「さあ腕をまくって…」だと。「これは一体なに?ボクは病気じゃないのに。お母さん助けて…」と、泣きながらお母さんを見ると「静かにしなさいッ」。助けるどころか、ボクを押さえつけた。その瞬間、ブスッ…。「だましたなッ、みんなグルなんだ!」

このように子供の信頼を裏切ると、今度はその子が本当に病気になったときの治療に支障をきたすことが多いのです。子供にとっては当然ながら、それ以降に病院でされたり言われたりすることは、どれもこれも信用できなくて、診察時には泣き叫んで暴れるし、家では薬を拒絶するしで、手に負えなくなることがあるのです。

その上こういう事態は、母親の信用も落としてしまいます。信じていたお母さんが、医者とグルになってボクをだましたと思うからです。こうなると、病気や薬に関係のない日常の躾にも悪影響を及ぼし、育児を難しいものにしてしまいます。

病識のある子供を予防注射に連れて行くときは、子供がその意味を理解し納得していることが望ましいのですが、納得できないとしても、要は、注射をすることを親が子供にあらかじめきちんと伝えられるかどうかです。

子供は完全には理解できなくても、母親の言動やその場の雰囲気から多くのことを感じ取るものです。「この子はまだ小さいし、予防注射をすると言っても分からないだろう」と決めつけてはいけません。まして、暴れたりむずかったりされることを恐れて、何も言わずだまし討ちのように注射するのは、言語道断です。

親としての威厳を持って、きちんと子供に言い聞かせてから予防注射に連れて行きましょう。たとえ家から病院まで、延々と泣かれ続けたとしても、です。「だまされた」と子供に思わせないことが親子の信頼関係を強固にするのです。
つづく

体罰の是非(後編)

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赤ちゃんの離乳がほぼ終了し、一日三度の食事の練習を始めるのは九ヵ月以降からが一般的です。
それ以前からでもいけないわけではないのですが、九ヵ月が目安というのは「食事の始まりは躾の始まり」なので、赤ちゃんの精神的発育が間に合っていないとうまくないからです。
この時期、赤ちゃんの我儘でテーブルを引っかきまわしたりした時に、その手をバチンと一発やらなくてはなりません。
ほとんどの親は、これが最初の体罰です。

体罰はせいぜい三歳ぐらいまでと言われていますが、もっと後になってもやらなければならない時もあるでしょう。
もちろん言ってわかるのなら体罰はいらないのですから、できるだけ早く体罰はやらないで済むようにするのが基本です。
とはいえ、子供に対して体罰を加えている時、親は決して冷静な気持ちでやっているのではないというのも事実です。
つまり親はカッとなってやっているのです。私はそれでいいと思います。
よく、「体罰を加える時は冷静な気持ちになって、なぜこの子に体罰を加えなければならないかを親が納得し、叩く時は頭や顔を避けてお尻を叩くべきだ」などという言葉を聞きます。
理屈を並べればそのとおりかもしれません。
しかし、私がその叩かれるほうの子供だったら、こんな薄気味の悪い親はご免こうむりたい。

子供を育てていく時、もちろんそこには理性がなければなりません。しかし育児の原動力となっているものは愛情です。
決して理屈で子供を育てているのではないのです。
子供が何か悪いことをした時、親の平手打ちが飛ぶのは、今、その子のしたことが親の人生観や生き方から大きく外れていて、とても黙って見逃すわけにはいかないので、親はクドクド説明するのももどかしく、カッとなってひっぱたくのです。

これは親が一人の人間として瞬間的に価値判断をした結果です。親のまなじりはつり上がっているし、いつもやさしく抱っこしてくれるお父さんやお母さんの顔は、この時ばかりはひきつっています。
子供は叩かれた痛みより、親のこの時のただごとではない顔を見て、〝これは容易ならぬことになった″と思い、〝お父さんやお母さんのこんな恐ろしい顔を見るようなことにはなりたくない、もう二度と今回のようなことはするまい″と思うでしょう。

さらに、毎日一生懸命に働いて自分たちをやさしく育んでくれているお父さんやお母さんは、何を大切にして生きているのかということが、おぼろげにでもその子なりにわかるでしょう。これでこそ体罰の効果があるのです。
それを冷ややかに「この子のために、この子は今、叩かれなければならないのだ」などと、まるで昆虫のような無表情な顔をして叩かれたら、叩かれたほうの立つ瀬がないではありませんか。
母子関係の理論を大成させたJ・ボウルビィも同様のことを言っており、彼も体罰に不賛成ではありません(『ボウルビィ 母子関係入門』)。

体罰の是非(前編)

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私の長男が中学生のころ、妹たちに向かってよく言っていた面白い言葉があります。

― 「お前らはいいな。おやじもやさしくなったから。オレだったらもう今ごろぶっ飛ばされていたわ」―これは三人の妹たちの誰かが、私が怒りそうな、あるいは叱られそうなことをやったときに言ったものです。
この言葉が面白いというのは、私たち親も、実は子供と一緒に親として成長しているということを如実に示しているからです。

体罰をすべきかどうか。私はどちらでもいいと思います。要するに「やる」か「やらない」かです。「やらない」と決めたのなら、やらないこと。「やってもいい」と思っている場合にはそこに一貫性が必要です。

つまり「やる」場合、同じ程度の悪さをしたにもかかわらず、ある時は簡単に許され、ある時はひどく叱られるというようなデタラメなことをしないこと。

また、どちらか一方の親が子供を叩いたとき、もう一方の親が〝ちょっとやり過ぎだ″と思っても、その場はじっとこらえていること。うっかり、「そんなにまでしなくてもいいでしょう」と言ってしまったり、さらにはそのことが原因になって、「お前の育て方が悪いんだ」などと子供の前で口論になったりすると、その体罰はなんの効果もないどころか、かえって悪い結果をもたらします。子供の目の前で、今やった体罰について両親がやり合うのはいけません。
それは子供にとって、自分に対する教育方針と責任の所在が一貫していないことを見せつけられることであり、子供から見ると両親が頼りなく見えるのです。

しかし、〝しまった、やり過ぎた″と思うような時も実際にはあるものです。
そのような時、「ごめんね、よしよし」と、今やった体罰に親が反省した態度をすぐに示してはいけません。これをやると、その体罰自体が無意味なことになってしまい、子供は「悪くなかったのに親が間違ってやった」と思い、最悪の結果となります。親としてはつらいかも知れませんが〝当然だ″という顔をしていることが肝心です。

ここで、体罰について確認しておかなければならないことがあります。それは体罰によって物事を教える、あるいは悪い行為を中止させることができるのは子供に対する愛情に自信のある場合、すなわち「愛の強制力」を行使できる親に限る、ということです(連載第四十九回参照)。愛の希薄な親子関係では体罰は虐待と同じことになります。たとえば次にあげるような経過をとっている場合です。

一.親子の関係が友達のようになっている場合

二.子供の要求をとめどなく容認する育て方をしている場合

三.連載八十一回、八十二回で述べた、アタッチメント形成不全を発生させる七項目のどれかをやっている場合

このような親子関係で体罰を行うと、それは単なる家庭内暴力でしかなく、躾にも教育にもなりません。